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特攻隊戦没者慰霊顕彰会・会報(令和5年度)における掲載記事

「郷土の身近なる特攻史 続」…会報「特攻」(令和5年11月・第147号)からの転載

 先月、公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会が発行しています会報「特攻」に寄稿した記事を転載します。これは同顕彰会の調査研究グループ活動の一環で半年ほどかけて資料収集・聞取り調査等を行った結果に基づいています。
 
 今回は、「郷土の身近なる特攻史 続」という題で、昨年寄稿した同題名の第2弾になるものです。
 画像にあります「第5七生隊(指揮官) 晦日(みそか)進少尉(昭和20年4月29日沖縄方面にて散華)」のおいたちから遺書に至るまで調査し、会報の最後には、調査研究グループ長として私(福江広明)の所感を付させていただいています。下記PDFをご覧いただけますと幸いです。


PDFファイルを表示
航空特攻・第5七生隊 晦日進少尉
本家(長崎県大村市)の墓石
晦日少尉が父母に宛てた葉書
晦日少尉の特攻出撃前の遺書

第53回指宿海軍航空基地哀惜の碑慰霊追悼式に参列して(令和5年5月27日(土))

 令和5年5月27日(土)、「第53回指宿海軍航空基地哀惜の碑慰霊追悼式」(以下「追悼式」)が、鹿児島県指宿市東方にある慰霊碑公園内「哀惜の碑」前において催行された。

 追悼式の会場は、指宿市の田良浜海岸を見下ろす高台にあり、田良浜飛行場の跡地でもある。周辺地域は、ご存じのとおり薩摩半島先端にある九州有数の温泉場にして風光明媚な観光地である。


 指宿海軍航空基地では、昭和20年4月末から7月初めまで一連の菊水作戦の中で水上機による特攻が敢行され、出撃機数44機、82名の搭乗員が散華されている。なお、特攻戦没者のほか、訓練による殉職者及び米軍B29の爆撃による一般戦死者、計110名が尊い犠牲となられている。

 この基地における航空作戦の特徴は、水上機を運用したことにある。使用された機種は追悼式会場の展示パネルにある「零式水上偵察機、零式観測機、94式水上偵察機」であった。この部隊編成・使用機種からすると、大戦末期すでに戦闘機、戦闘爆撃機、練習機等の航空機戦力が不足する深刻な戦況にかんがみ、水上機すらも特攻機へと転用しなければならない苦肉の策であったのだろう。
 現地の「指宿海軍航空基地哀惜の碑顕彰会」(以下、哀惜の碑顕彰会)が作成された配布資料によると、水上機特攻の目的について「水上機の特攻の最大の狙いは、指宿基地を中継基地として月明の夜間に乗じて出撃し、沖縄周辺海域に蝟集する米軍艦船、特に輸送船を撃滅して機動部隊の補給を断つことであった」と記載されている。

 

 当日の気象は、曇天にて気温24度、大型台風が沖縄方面に接近していることもあって風があり、海岸線に白波が立つ状況。過去3回の追悼式(第50回~第52回)については、コロナ感染予防措置の観点から「哀惜の碑顕彰会」の役員により開催されたとのことであった。

 今年度の参加者は遺族関係者(5名)、来賓、一般参列者並びに「哀惜の碑顕彰会」関係者参加者を含めて約40名の参列であった。ちなみに、元隊員の方にあっては、引き続きコロナ感染予防を考慮されてのことと思われるが、参列はなかった。

 

 追悼式は定刻の午後3時に始まった。式順としては、黙祷に続いて神事(①一拝②修祓③降神の儀④献餞⑤祝詞奏上⑥慰霊のことば⑦玉串奉奠⑧撤饌⑨昇神の儀⑩一拝)が執り行われた。その後、参列者全員による献花を行い、午後3時45分には閉式のことばをもって終了した。

 慰霊のことばについては、哀惜の碑慰霊顕彰会会長を務める打越明司・指宿市長が「現在の祖国の繁栄と指宿の発展があるのは、先人(英霊)による努力の賜物。これからも長く後世に語り続けるとともに、恒久平和を祈念していきたい」との哀悼の意を述べられた。

 追悼式の終了後、主催関係者に話をうかがう機会を得た。その際、他の慰霊祭等と同様に、この指宿海軍航空基地に関係ある生存者及び遺族の高齢化が進み、参列すること自体がいっそう難しくなりつつあるという実情を聞くことができた。また慰霊追悼式に関しては、政教分離に配慮しながら、市役所関係職員及び社会福祉協議会関係者の連携協力することで継続していくとのことであった。

 今後は、「哀悼の碑顕彰会」という確立した体制があることから、図書館等の公共施設を活用して、指宿海軍航空基地関連の展示会を開催し地元の児童への歴史教育にも取り組まれ、若い世代の地域愛を醸成していくことも世代継承につながっていくのではないかとの印象を持った次第である。

 

 「哀悼の碑」に隣接して設置されている展示パネルには、指宿で運用されていた機種及びその説明書きのほかに、「遺書」も掲示されている。ここでは、甲飛第13期の松永篤雄氏の遺書を以下に記し、あらためて哀悼の意を表したい。

 なお、「特別攻撃隊全史」(公益財団法人・特攻隊戦没者慰霊顕彰会発行)によれば、松永篤雄氏は鹿児島県出身、昭和2年生まれ、階級は二飛曹、戦死日・昭和20年6月25日、戦死場所・沖縄周辺と記載(「特攻全史」215頁中)されている。

 

『遺書 松永篤雄 第13期甲種飛行予科練 第12航戦 2座水偵

私は今、従容として皇国の礎となり、春爛漫の桜花と笑って散って征きます。

 神州大和島根に生を享けて19年、母上様伯母上様に御面倒をかけたばかりで、何の孝養もお努めも出来ずに征くのが何よりの心残りですが、今悠久の大義に生きる血戦特別攻撃隊の一人として沖縄の海に皇国の御楯と死んで征くならば「武人の本望だ」と言って孝行の端にも入れて下さると信じ、自分の心を慰めて居ります。

 気まま坊主の篤雄も、猛訓練の結果、やっとお役にたつことが出来たのです。

 日本男子として生れ、最も働き甲斐のある搭乗員として、いまや嵐の中の沖縄決戦場に死んでいく栄誉、何の思い残す事がありましょう。

 澎湃と寄せる太平洋の荒波に醜敵の艦船百隻、必中必殺の巨弾を抱ける我が愛機は必ずや敵艦を轟沈、沖縄の海に万朶の桜を開かせます。

 さようなら

 お母様お伯母様、孝子ちゃん健やかに育ち、心と共に

 私の後継者たることを誓って下さい。決して泣いて下さるな 笑って下さい。

 父の仇はきっと私がとって見せます。

 辞世 悠久の大義に生きん若桜 只勇み征く 沖縄の空

 房姉さんにもらった桐の木は大事に育てて下さい。家内皆様の御健闘を祈ります。』

祭壇が設けられた「哀惜の碑」
会場の展示写真
94式水上偵察機ー「指宿海軍航空基地哀惜の碑顕彰会」作成のパンフレットから引用
零式観測機ー「指宿海軍航空基地哀惜の碑顕彰会」作成のパンフレットから引用

第57回特攻殉国の碑慰霊祭に参列して(令和5年5月14日)

1 慰霊祭等の概要

 令和5年5月14日(日)、長崎県東彼杵郡川棚町新谷郷(しんがえごう)において「第57回特攻殉国の碑慰霊祭」(以下「慰霊祭」という)が、旧海軍の水上特攻等により散華された英霊を慰霊顕彰する『特攻殉国の碑』(昭和42年5月建立)前にて催行された。

 慰霊祭当日の早朝、宿泊先(長崎県佐世保市内)から慰霊祭会場に向かう途中、戦没者慰霊の目的のため、佐世保東山海軍墓地に立ち寄る。ここには、佐世保に鎮守府が置かれ前大戦が終了するまでの約60年間に亡くなった海軍将兵等17万余柱の霊が祀られている。

 この旧海軍墓地から慰霊祭の会場となる川棚町新谷郷までは車で1時間余り。現地に到着したのは午前10時半。慰霊祭会場及びその周辺では多くの住民の方が初夏を感じさせるほどの気温(24°程)の中で、最終的な諸準備を入念に行なっていた。多くの年配の方に交じって臨時駐車場の除草作業等を行う父兄同伴の児童も散見された。

 こうした準備状況を見ていると、新谷郷の方にとって、慰霊祭は単なる年中行事ではなく、子弟へ郷土愛や戦争の歴史を教え育み、慰霊顕彰を伝承していく貴重な機会なのだと実感できた。

 その後、慰霊祭開始時間までの間、慰霊会場近隣に点在する魚雷艇訓練場、魚雷発射試験場等跡を見学するとともに、地元関係者の方から慰霊にかかる話をうかがった。その際の状況及び所感については、「所見」の項において、四谷会員が記述。

 
 慰霊碑の土台には次の文が銘記されており、慰霊祭の催行趣旨を理解できる。なお、銘文は句読点無しのため、そのママ記述している。

『昭和19年 日々悪化する太平洋戦争の戦局を挽回するため日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀からこの地長崎県川棚町小串郷に移し魚雷艇隊の訓練を行った 魚雷艇は魚雷攻撃を主とする高速艇でペリリュー島の攻撃硫黄島最後の撤収作戦など太平洋印度洋において活躍した 更にこの訓練所は急迫した戦局に処して全国から自ら志願して集まった数万の若人を訓練して震洋特別攻撃隊伏竜特別攻撃隊を編成し また回天蛟竜などの特攻隊員の練成を行った 震洋特別攻撃隊は爆薬を装着して敵艦に体当たりする木造の小型高速艇で七千隻が西太平洋全域に配備され比国コレヒドール島沖で米国艦船四隻を撃破したほか沖縄でも困難な状況のもとに敵の厳重なる警戒を突破して特攻攻撃を敢行した 伏竜特別攻撃隊は単身潜水し水中から攻撃する特攻隊でこの地で訓練に励んだ 

 今日焼土から蘇生した日本の復興と平和を見るとき これひとえに卿等殉国の英霊の加護によるものと我等は景仰する 
 ここに戦跡地コレヒドールと沖縄の石を併せて ゆかりのこの地に特攻殉国の碑を建立し遠く南海の果に若き生命を惜しみなく捧げられた卿等の崇高なる遺業をとこしえに顕彰する

昭和四十二年五月二十七日

 有 志一同

 元隊員一同』


 慰霊祭については、令和の時代になった以降の2年間はコロナ禍の影響を受け地元の役員の方のみが参列、また昨年は継続するコロナ禍の中、遺族及び来賓を限定して執り行われたとのことである。

 コロナ感染が沈静化した今年、前日までの雨が上がり快晴、微風の下、コロナ以前と同規模の約200名が参列し、定刻どおり午後2時の挙行となった。

式次第は次のとおり。

1 開会の辞

2 軍艦旗に敬礼

3 国歌斉唱

4 黙祷

5 慰霊の辞

6 慰霊電報・書翰奉呈

7 拝礼

8 「同期の桜」合唱

9 閉会の辞

「慰霊の辞」は新谷郷総代、長崎県知事代理及び川棚町長代理の3名の方が奉読された。祭主である新谷郷総代・寺井理治氏は、「この1年、特攻殉国の碑に隣接する資料館・震洋展示館に、約2000名の来訪者があり、ボランティア・ガイドの協力を得て歴史教育を実施した一方、一般メディアを観るにつけ若き世代の意識から、先の戦争が風化していくことに懸念されるため、当地にあっては、今後とも歴史の世代継承を末永く行うことを使命としている」と力強く述べられた。

 コロナ以前の慰霊祭では、震洋隊の元隊員の方が「隊員代表」として慰霊の言葉を捧げられていたが、今年は拝聴できず、あらためて慰霊顕彰に関する時代の移り変わりを感じた次第である。

 参加者全員による「同期の桜」の合唱後、新谷郷総代がお礼の言葉の中で、「来年も5月第2日曜日の午後2時から必ず慰霊祭を執り行うことから、地元からの連絡が不行き届きのところがあろうかと思うが、ぜひとも参列いただきたい」と強調され、閉会となった。午後3時半には、予科練であった私の実父も搭乗員の一人であった震洋特攻艇の訓練基地、そして戦時遺構の町、長崎県川棚町新谷郷を後にした。

 
2 所見(四谷桜子 記)

 令和5年5月14日(日)、長崎県東彼杵郡川棚町にて第57回特攻殉国の碑慰霊祭が斎行され、福江理事と私の二名で出席いたしました。

 当日は気温が高かったものの時折爽やかな風が吹く中での穏やかな慰霊祭となりました。

 こちらの慰霊祭は、以前は震洋遺族会が主催されていましたが、ご遺族の高齢化に伴い五年程前から新谷郷自治会の主催になっています。

 自治会の女性によると、震洋という兵器自体があまり世間に知られておらず、このままだと廃れていくことは明白なので、なんとか私たち自治会の力で少しでも情報を広め、しっかり引き継いでいこうという思いでやっている、と仰っていました。


 新谷郷には震洋の基地があったとはいえ、近くに元隊員やご遺族が住まわれているわけではありませんが、約300戸あるうちのほぼ全戸が協力的で積極的に準備に携わっていただいているそうです。

 当日は自治会の方何名かにお話を伺いましたが、どなたからもこの地で海上特攻の訓練が行われ、国を守るために命を懸けてくださった特攻隊員に感謝するとともに、そういった歴史があることを伝えていかなければならないという気持ちが感じられ、私も身の引き締まる思いがいたしました。

 また今までは毎年、元隊員の方が慰霊祭に来られてお話をしてくださっていましたが、このコロナ禍の間に亡くなられたり施設に入られたりなどしており、もう殆ど出席も叶わないとのことです。

 全国的にこの3~4年で元隊員の方からお話を伺うことが特に難しくなったと感じますが、今後さらにこういった機会が減り、情報を残していくことや引き継いでいくことの難しさを感じました。

 震洋は戦争末期に生産され全国で百十四隊が編成されましたが、実際に出撃したものはフィリピンと沖縄のニ隊のみとなっています。輸送船での事故や訓練途中の殉職等も多かったためそもそもの情報量が少なく、資料館の収蔵品にも限りがあるため、今後はご遺族のみならず震洋に関する写真や文書など、実体験に基づく資料があればぜひ寄贈をお願いしたいとのことでした。

 もし何か情報をお持ちの方がいらっしゃれば下記までご連絡をお願いいたします。寄贈先:「特攻殉国の碑保存会」電話:0956-83-2125

大東亜戦争戦没者慰霊塔(東山海軍墓地内)
祭壇が設けられた特攻殉国の碑
慰霊碑近くの片島魚雷発射試験場跡
殉国の碑に隣接する資料館内

万世特攻慰霊碑第52回慰霊祭に参列して(令和5年4月23日)

1 慰霊祭の概要

 令和五年四月二十三日(日)、「万世(ばんせい)特攻慰霊碑第五十二回慰霊祭」(以下「慰霊祭」)が、鹿児島県南さつま市加世田高橋1955-3に建立(昭和47年5月)されている万世特攻碑「よろずよに」の前において、万世特攻慰霊碑奉賛会主催により催行された。

 

 万世特攻基地は、日本三大砂丘の一つに数えられる吹上浜(ふきあげはま:薩摩半島西岸の砂丘海岸)に、昭和19年末、陸軍最後の特攻基地として建設された。基地内の万世飛行場からは、昭和20年3月から6月にかけて特別攻撃隊・振武隊、66及び55各戦隊等の計201名(17歳の少年飛行兵を含む)が、祖国防衛のために沖縄方面に出撃し散華されている。


 今回の慰霊祭は、雲一つない快晴の下、平成5年に開館した万世平和祈念館に隣接する万世特攻慰霊碑前において、4年ぶりに通常の開催要領で10時半から執り行われた。参列者は事前に配布された出席者名簿によると、全国各地から旧隊員1名と38名の遺族をはじめ一般参列者及び万世特攻慰霊碑奉賛会関係者等、約200名であった。 慰霊祭の式次第は次のとおり。


・遺族・旧隊員の紹介

1 開式のことば   奉賛会副会長

2 国旗掲揚

3 黙祷

4 追悼のことば   奉賛会会長

5 慰霊のことば   遺族代表

6 慰霊の詩     旧隊員

7 祭電披露

8 献詠

9 献花       参列者全員

10 献奏

11 若者の誓い    若者代表

12 合唱

13 国旗降納

14 閉式のことば   奉賛会副会長


 なお、例年実施されていた海上自衛隊鹿屋航空基地所属の航空機による慰霊飛行は公務多忙のために中止、また陸上自衛隊国分駐屯地の音楽隊による献奏も事前収録されたものであった。

 

 黙祷終了後、万世特攻慰霊碑奉賛会の本坊輝雄会長からは、収まりを見せるコロナ禍、ウクライナ侵攻の長期化及びスーダン内戦等に触れた上で、万世飛行場を出撃し尊い命を捧げた特攻隊員の崇高な精神と使命感等を後世に語り継ぎ、平和社会を築いていく旨の追悼がなされた。

 「慰霊のことば」は、第72振武隊の一員として旧陸軍99式襲撃機に搭乗し昭和20年5月27日に沖縄南部海面で散華された高橋峯好伍長(神奈川県出身)の姪にあたる髙徳えりこ氏が遺族代表として述べられた。17歳で英霊となった叔父の写真を眼にした以降、特攻史の語部となり、その史実を後世に伝えることが生きがいであると自らの心情を話された。続けて、叔父への深い思いで綴られた自作の鎮魂歌を披露された。その歌声はまさにレクイエムにふさわしく、胸に迫るものがあった。


 続く、旧隊員代表で、今回唯一の旧隊員出席者である飛行第66戦隊(操縦)の上野辰熊氏は、今年95歳とは思えぬほど、かくしゃくとされていた。背筋がしっかり伸びた不動の姿勢で、昭和18年から終戦まで、自らが経験した飛行隊の編成、戦況の変化、沖縄戦への突入等を時系列で簡明に語られ、英霊に向けて日本国に加護あらんと結ばれたのが印象に残った。

 

 祭電披露に引き続き、昨年は事前奉呈であった詩吟朗詠錦城会加世田道場による「英霊南に還る」が献詠された後、陸自国分駐屯地・音楽隊の事前収録による「国の鎮め」と「海ゆかば」が流れる中、参列者全員による献花が行われた。

 

 今年の「若者の誓い」は、南さつま市立金峰学年9年生(南さつま市で2つの小学校と1つの中学校が統合して今年4月に開校した義務教育学校)の小辻美咲さんによって読まれた。地元が大戦時に米軍の爆撃で被害や犠牲を経験していることを学ぶことで、現在の平和な暮らしにあらためて感謝したいとの思いが表現されており、若年世代による慰霊継承の気持ちを実感させられた。

 式次第に記載されていた「合唱」については、沈静化したとはいえコロナ感染予防の観点から中止され、11時45分の閉式となった。

 

二 所見

 
 以前、他の慰霊祭に参列した際の所見に次のような内容を記したことがある。『大東亜戦争における戦没者のご遺族及び関係者が高齢化するとともに、我が国において少子化、就労人口の減少といった社会変化が加速化する近年、戦没者の慰霊顕彰という行為を組織的に、体系的に、継承することが困難な情勢になって久しい。こうした情勢変化を受けて、戦没者慰霊について我が国全体が大きな転換点を迎えていることを多くの方が承知している。しかし、現実は深刻で、将来的に戦没者慰霊に関わる諸行事及び各地に所在する慰霊顕彰施設が、急速に衰退していくおそれがある。』

 

 しかし、この万世特攻慰霊祭に関しては先の所感は全く的外れであったようだ。万世特攻慰霊にかかる行事のための体制及び運営は、南さつま市の行政組織等を中心した自治体が主体であり、確立している感を強く受けた次第である。

 
 万世特攻慰霊碑奉賛会は、会長に南さつま市長、副会長には鹿児島県議会議員及び南さつま市議会議長が就き、理事については多くの各種団体の首長等によって構成される。さらに来賓者枠以外の参列者の中には、県立・市立の高校・中学・小学校の校長等に加え、市役所の部課長等がおられる。地域行政等に従事及び関与する多く組織関係者が参画されているからこそ、例年まとまった規模の遺族及び一般参列者がこの慰霊の場に参集されるのだろう。


 これは、県下に特攻基地が点在する鹿児島の地域特性でもあるのかもしれない。それでもこれだけの体制を長きにわたり維持するのは相当な努力がなければできないことだ。体制維持という点では、慰霊碑「よろずよに」の建立、並びに万世平和祈念館の建設に尽力された故・苗村七郎氏(飛行第66戦隊所属の操縦者:2012年没)の英霊に対する慰霊顕彰の意志がしっかり受け継がれているからでもあるだろう。


 私はこれまで世代を問わず先述の戦没者慰霊顕彰の先行き不安について警鐘を鳴らし続けるだけではなく、とりわけ十代の就学児童に慰霊顕彰の行為を継承させていくことも重要だと言ってきた。当地の慰霊祭では、「若者の誓い」という形で児童が特攻の慰霊のみならず平和の享受について朗読されていることに感心させられた。若い世代への慰霊顕彰の継承とともに、学校教育の中で我が国が過去関与した戦争・紛争に関する正しい史実を、児童に学ばせ、常識に基づく歴史観を育ませようとする教育行政の一環ではないだろうか。だからこそ、先述したように多くの教育現場の管理者が参列されているのだと思う。


 若き世代による慰霊顕彰のスピーチというと、平成30年11月に参列した「回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式」を思い出す。山口県周南市大津島で毎年行われる「平和の島スピーチコンテスト」で最優秀に選ばれた中学生が、追悼式にも招かれ、あらためて行ったスピーチがとても印象に残っている。


 今後は、こうしたコンテストをはじめとする各種イベント等を通じて、慰霊顕彰の志を伝承していく若き世代が一人でも増えていく工夫を、我々戦後世代の大人達が行うこともまた大切なことだと痛感した。

万世特攻慰霊碑
「万世特攻平和祈念館」(平成5年5月開館)
旧隊員代表 上野辰熊氏
「萬世陸軍基地戦没者・殉職者慰霊之碑」
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