ホーム慰霊顕彰

慰霊顕彰

掲載記事の一覧

 以下の記事は、福江広明が理事として所属する公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」の会報『特攻』に自ら寄稿したものを、同法人の許可を得て転載しています。

8.フィリピン:令和四年度フィリピン特攻戦没者慰霊に伴う現地訪問等(令和5年2月1日)

7.長崎県:郷土の身近なる特攻史(令和4年4月26日)

6.鹿児島県:旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者に追悼等(令和2年4月4日)

5.福岡県:特攻勇士慰霊顕彰祭に参列(令和元年5月11日)

4.鹿児島県:出水市特攻碑慰霊祭に参列(平成31年4月16日)


3.山口県:回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員の追悼式に参列(平成30年11月11日)

2.埼玉県:特攻隊慰霊祭に参列(平成30年10月31日)


1.長崎県:特攻殉国の碑慰霊祭に参列(平成30年5月13日)

「令和四年度フィリピン特攻戦没者慰霊に伴う現地訪問等」(令和5年2月1日)

 令和四年十一月二十一日(月)から三日間、評議員・及川昌彦及び会員・木村達人の同行のもと、在フィリピン日本国大使館(以下、在比大)との入念な計画に基づき、首都マニラ、マバラカット及びアンヘルス両市等を訪問し、特攻顕彰碑の建立及び維持に尽力した現地の特攻慰霊貢献者に対する在外公館長表彰の式典に参列するとともに、慰霊各所を参拝したことを、所見等と合わせ報告する。

 
一 全般

 フィリピン滞在中は、常に天候に恵まれ、気温も昼夜の寒暖の差こそあったが、当初計画どおり円滑に行動でき、所望以上の成果が得られた濃密な三日間であった。これは、現地にて当会から外務省への便宜供与依頼に従って空・海自両防衛駐在官(秋葉(あきば)和明(かずあき)1等空佐、関根(せきね)健(たけ)陽(はる)2等海佐)、並びに当会の現地慰霊を二十年以上にわたり支援いただいている現地在住の竹内ひとみ氏(今回の表彰者のお一人でもある)が全日程に常時同行していただいたおかげである。

 今次の現地訪問の特徴は、①従前の慰霊祭の実行日(例年十月二十五日「敷島隊」によるレイテ島の米艦隊に対する出撃日)と時期を違えて当会単独による実施②在比大が主催する特攻慰霊顕彰にかかる在外公館長表彰の式典への出席③自衛隊機の海外運航時における地上支援役務契約を通じて海空自と信頼関係にあり、かつ特攻慰霊に高い関心を持つ現地企業の表敬であった。

 なお、日程の概要は次のとおりである。


■初日:午前中に羽田から空路、マニラ入り。先述の三名の方と合流後、大使公邸にて在外公館長表彰式等に出席。

■二日目:マバラカット市行政当局の表敬、同市内及び周辺の各慰霊の地にて参拝。最後はリベラト・ディソン邸(今回のもう一人表彰者で、故ダニエル・ディソン氏(以下、父ディソン氏)の長男)にて資料室内の展示物の見学。

■三日目:直近では、海自US2×1及び空自F15×2機の地上支援を実施したイージス・アビエーション・センター(民会企業)を見学。午後、マニラ空港から帰路に就く。


二 細部

(一)大使公邸での在外公館長表彰式出席

 式典開始一時間前に会場となる大使公邸に両防衛駐在官と共に到着。越川和彦大使及び令夫人に表敬後、公邸内展示品の拝覧及び表彰者のリベラト・ディソン、被表彰者家族であるダノン・ディソン(表彰者の弟)及びマヤ・ディソン(表彰者の妹)各氏と挨拶。午後五時表彰式開始。越川大使による受賞者の功績紹介に引き続き表彰状の授与が行われた。ディソン氏、竹内氏の順で受賞者の謝辞があり、個別・集合の各写真撮影並びに現地メディアの取材が終了した以降は、公邸の庭及び公室において表彰者及びその家族との歓談時間となった。


 父ディソン氏の思い出、特攻に対する思い、父親の意志の継承等に関する質問にも優しい笑顔で応えてくれたことが印象的であった。

 なお、関連の詳細記事として、①在フィリピン日本国大使館が開設しているfacebookの十一月二十二日付の記事及び②現地マニラ新聞記事(https://www.manila-shimbun.com/category/society/news267868.html)をご覧いただきたい。


(二)マバラカット市観光局への挨拶 

 慰霊顕彰碑等の設置場所が同市の管理地域にあたることから、各所での参拝に先んじて観光局のアルウィン・リンガット氏を表敬。現地平和式典参列の関係から市長を表敬する予定であったが、当該日は市長不在であり代行として先の職員に対応いただいた。同氏と両防衛駐在官の間で、今後の特攻隊の慰霊祭運営及び慰霊碑の維持管理等について意見交換が行われ、当会としても来年以降の慰霊顕彰地の訪問要領等を検討する上での資を得た。


(三)慰霊顕彰碑等への参拝

 滞在二日目の午後は、平和観音宮、神風東飛行場平和記念碑、マバラカット西飛行場を車両移動により順次参拝した。参拝者は当会参加者三名、両防衛駐在官、竹内氏の計六名。また各所では竹内氏に準備いただいた供花、靖國神社のお神酒をはじめ日本国内からの持参品等を供えた。

 特に、平和観音宮では、参拝に際して平成二十九年この地を訪れた当会評議員の太田兼照の行為に倣い、「特攻平和観音経」を読誦することで英霊を供養した。


(四)ディソン邸の資料室見学

 マバラカット市は首都マニラから北方へ約百キロ。ディソン邸は、そのマバラカットの近郊であるアンヘルス市内に建つ。その邸内の一角に「カミカゼ博物館」がある。故ダニエル・ディソン氏が資料館として開設して半世紀近い間に収集した特攻隊員の遺品、自ら描いた特攻隊員の肖像画をはじめ多くの特攻関連の品々が所狭しと展示されている。

 国籍に関わらず特攻の歴史を学ぶ貴重な空間であった。来館記念として拝受した関行雄大尉の肖像画(一連番号付きの写し)は、〇〇頁に掲載。


(五)現地の航空機地上支援会社の見学

 今回同行した木村会員は、防衛大学校二十五期生で私の同期である。彼も航空自衛隊に入隊後、主に航空管制の分野で職務を全うし、七年前に定年退職。現役の間、在フィリピン防衛駐在官の勤務経験があり同行者として最適任と考え、私から同行を要請し、快諾してもらったわけである。

 その彼からフィリピンを離れる前に、わずかでも時間があれば、ぜひ在比大勤務時に空自航空部隊が在外運航で支援してもらった現地の会社に出向いて謝辞を伝えたいとの要望があった。このため、今回日程に組み込んだものである。同会社と防衛省自衛隊、同社長と特攻慰霊のそれぞれの関わりについては、四項に記した彼の所感をご覧いただきたい。


三 二つの所見

(一)父ディソン氏(ダニエル・H・ディソン)の偉大な功績

 先に紹介した表彰式において、越川大使が述べられたお言葉から、リベラト・ディソン氏が「日比両国の歴史を思いやりの観点から相互理解することを醸成させた人物」と、また竹内氏が「特攻慰霊の支援を通じて日比の信頼関係促進に努めた人物」と高く評価されていることをあらためて知ることができた。

 この両名の方による今日までの特攻に関する認知努力に多大な影響を及ぼしたのが父ディソン氏である。つまり今回の在外公館表彰をもって父ディソン氏の人生をかけた活動が功績として公認されたことになる。この結果をきっかけにして日比両国民に特攻に関する認識
をいっそう深めてもらい、ひいては両国安全保障の深化に結び付くことを期待したい。そのために一人でも多くの方に父ディソン氏の著書「フィリピン少年が見たカミカゼ」を読んでいただきたい。

 当時の外征日本軍の非道性と、誠実にして思いやりある日本の国民性の両面から偏りなく淡々と事実を書き貫いている秀作だと思う。大東亜戦争終結に向けて難局を極めたフィリピン方面作戦の現場部隊で何が行われていたのかをあらためて世代を問わず読んでいただきたい。戦史関連の図書を紐解いても、見えない、見えていない所に目を向ける事こそ、勝敗とは別に戦争の正体を知る上で大事なのではないだろうか。


(二)現地慰霊祭の関与の在り方

 コロナ禍以前に催されていた現地の特攻基地平和式典の運営主旨及びその要領については、従前から地元行政当局と在比大との間でも意見のやり取りが行われていた。

 今回の表敬時における現地比当局側の見解からは、地域の公共性を高めるために当該式典を拡充するとともに、特攻記念碑が設置されているクラーク特区内の敷地整理を図るとの意向が強いように見受けられた。加えて当局はいずれの施策も少しずつ着実に進めたいようだ。こうした政治と宗教が絡み合っている当局の打つ手に在比大は戸惑いがある。また竹内氏にしても西飛行場記念碑の存続に危機感を持たざるを得ないだろう。

 この問題の解決にあたっては、当会も在比大と密接に連携して情報の共有に努めるとともに、今後のこの問題に対する関与姿勢を明らかにし、来年以降の現地式典への参加対応を決めなければならない。そもそも論で恐縮であるが、本来、特攻基地平和式典の目的は、特攻隊戦没者の慰霊及び世代継承である。そしてこの大目的を達成するために、学校、地域、家庭のレベルでの教育を行い正しい歴史観を持たせ、とりわけ若年世代に顕彰の場である平和式典への積極的な参列意欲を沸かせることが最も大切なはずだ。

 それを歴史観の未醸成や顕彰性の認識不足を脇に置いた形で地域住民の参集効果だけを高める方法は全く同意できるものではない。特攻戦没者慰霊の本来意義が少しでも薄められることがあってはならない。

 もしそうなれば、それ自体、俗っぽい単なるイベント性の強い祭典でしかありえない。いずれにしても、当会として現地式典の継続参加の対応、慰霊碑等の存続を追求する方向性を早急に見出すことが必要であろう。


四 同行した木村会員の所感

 「東洋の真珠」と呼ばれるほど美しいとされるマニラ湾に沈む夕陽。

 太平洋戦争末期の戦火激しい中、フィリピンのマバラカットから出撃した神風特攻隊の隊員は、その日を迎えるにあたって、燃え盛る愛国心と家族への思いをマニラの夕陽に重ねたかもしれない。

 今回二十一年ぶりに訪れたフィリピンで、在職時には出来なかった特攻慰霊廟等参拝をはじめ当時知り得なかった戦時中の様子を学び、また戦後慰霊碑の建立・維持、さらには今日に至るまで写真等関連品を自宅で展示・公開し続けて来られた故ディソン氏並びにご子息家族、そして現地在住の日本人として地元との調整や慰霊廟等の管理、案内等に尽力されている竹内氏とも知り合うことが出来、私にとって本当に貴重な訪問となった。

 また先述の「Ages Aviation Center, Inc.」という会社は、フィリッピンに飛来する航空機のグランドハンドリング会社として有名で、自衛隊もこれまで長きにわたって大変お世話になっている。最近では空自戦闘機F-15、海自飛行艇US-2も支援している他、世界各国の要人専用機や軍の航空機が訪比する時にもグラハン会社として実績を積み重ねて来ており、今や日本にとっても信頼のおける大事なグラハン会社となっている。

 社長のサロンガ氏には、私が在比防衛駐在官当時から、今後も引き続き我々の良好な関係維持と自衛隊機に対する万全の支援をお願いしていたことから、今回の慰霊訪問の機会を得て、帰国直前に空港敷地内にある彼の会社を訪問できたことはこの上ない喜びであった。

 旧交を温める会話の中で、サロンガ氏が自らもマバラカット訪問時に、特攻慰霊廟を参拝している事実を知り、特攻の意義を正しく認識してくれていることにあらためて敬意を表した次第である。最後に、顕彰会による比国特攻戦没者慰霊訪問が今後も続けられることを切に願っている。

特別攻撃隊の碑
大使館における表彰式の集合写真
ディソン氏作の関大尉肖像画
フィリピンのグラハン社訪問

「郷土の身近なる特攻史」(令和4年4月26日)

1 郷土の特攻史を知るきっかけ

 一昨年、『特別攻撃隊全史』(以下、全史)の第2版が12年ぶりに刊行された。当会に入会して4年目ながら、その記載内容を一部改訂する事務にかかわった。全史を精読したのは、正直このときが初めてだった。


 印刷会社の校正刷りを原稿と照合する作業は、時間と根気を要した。しかし、おかげで私の郷里が特攻史に関わりを持つことに、気づくことができた。該当箇所は、全史の332頁。鹿屋特攻基地の碑「特攻隊戦没者慰霊塔」に関する説明の一部、「…出撃した神剣隊(大村空)…」の記述文まで読み進んだところで、思わず手を止めた。

 私の出身地である長崎県大村市が前大戦中、戦火に見舞われたことは幼い頃から知っていたが、特攻に纏わる話を耳にしたことは一度もなかった。当時、市内に配置されていた大村海軍航空隊において、航空特攻の部隊が編成され出撃した史実があったとは驚きだった。

 全史を改訂する作業を再開した時には、郷土の特攻史を調べてみようと思い立っていた。


 先述の作業から数日後だったと思う。母校(県立大村高等学校)の一年後輩にあたる山下健一郎氏(現・大村市の副市長)が公務のため上京した折に、私の勤務先を訪ねてくれた。久しぶりの再会だった。その際に当会の名刺を渡したことが、郷土の特攻史に関する調査を進めるきっかけとなる。

 
 後日、大村市立図書館職員の方から、航空特攻の部隊である「神剣隊」に関する情報が私の元に寄せられた。山下副市長が特攻にかかる郷土史の有無について、問い合わせてくれたのである。

 

 郷土の歴史資料館の協力を得て調査開始

 郷土の図書館からの情報提供は、当会の理事として思案中であった課題の解決策にもなった。私は調査研究グループの長に就いたばかりで、その業務の方向性を定めなければならない立場にあった。当該グループ員は私を入れて7名。専従できる会員は一人もおらず、当会が独力で特攻にかかる新たな史実の発見や保管データの検証を行うことは、かなり難しい状況にあった。

 
 その最中に、先述の「でき事」に出会ったわけである。全国各地に所在する歴史資料館、図書館等との共同作業ならば、より迅速にして精度の高い調査研究を行えるとの期待が一気に高まった。潜在的な史実が明らかになる可能性すら予期できた。

 
 こうした思いを持って、大村市歴史資料館・学芸員の川内彩歌氏に協力の依頼をしたところ、「自治体としても大村の歴史研究に繋がることから、情報提供を惜しまない」との返答であった。これにより、郷里の歴史資料館とコラボしながら特攻の調査研究を行い、その一連の活動と成果を当会の会報に掲載しようと考えるに至った。


 今回の調査に関する詳細な経緯や結果は後述するとして、主な成果(私が初めて知り得たことを含む)については、次の5つになる。

  • 6次にわたる航空特攻の「神剣隊」搭乗員は、大村航空隊において訓練し編成され、鹿児島県の鹿屋航空隊に移動後、鹿屋基地から出撃したこと。
  • 「第3神剣隊」の搭乗員であった甲飛4期の林田貞一郎氏については、訓練期間中に懇意にしていた大村市民がいたこと。
  • その市民の親族が、戦後に同氏の生前の写真を知覧特攻平和会館に出向いて寄贈していたこと。
  • 前項の写真について調査する中で、鹿屋航空基地史料館にも問い合わせたところ、保管資料から林田氏の辞世の句を知ることができたこと。
  • 「神剣隊」とは別に、特攻戦没者の中に大村市出身の方が2名おられたこと。おひとりは航空特攻部隊「七生隊」の出撃で散華。もうひとりの方は、呉工廠において戦死されていること。

 

 いずれも新たな史実の発見とまでは言えないかもしれない。しかし、戦後70年以上が経過し、郷里において特攻隊員と一般市民がふれあった事実が消失しかける中、関係者の記憶を留め置くことには大きな意義がある。
 これまで多くの人に知られなかった特攻隊員個々の短い人生を明らかにすることは、慰霊にあたっての重要な行為である。

 

3 大村が軍都と呼ばれた所以

(1)地名の由来

 大村の地は、日本初のキリシタン大名である大村純忠(大村家第18代)や天正遣欧少年使節等で歴史的に知られている。江戸時代の270余年の間、12代にわたる大村氏がこの地を統治していた。

 ちなみに、藩主の居城であった玖島城の跡地は、現代では大村公園と呼ばれる都市公園となっている。日本の歴史公園百選のほか、桜の名所百選にも選定されている。


 地名の由来については、古文書『大村家記二』に「大村トハ当郡中ニ於テ土地肥良広大ナル村ナリ所以ニ大キ成ル村ト呼始シヨリ遂ニ村号トス」(大村とは、田畑が広大な地域という意味であり、彼杵郡内で一番広大な農耕地であったため、大きなる村と呼び始めた)と記されている。

(2)軍都としての発展の歴史

 大村で市制が施行されたのは、昭和17年2月11日。1町5村の合併によっている。つまり大村市の誕生は、前大戦の開戦直後になる。

 大村市のホームページ中にある『新編大村市史』(以下、市史)には、当時の大村が昭和初期から戦時体制へ移行する日本各地の社会動向をうかがいながら、自らの都市計画を立案し、実行していった経緯が詳しく記されている。

 
 その一つに、第21海軍航空廠が昭和16年10月に設置されたことを取り上げている。これにより、昭和17年末における大村市の人口は同廠の拡張もあって約5万6千人に、翌年には約6万8千人に激増している。明治以降、大村に順次設置された後述する陸海軍部隊に加え、この海軍航空廠の新設・拡充に伴った市政運営及び都市計画が進められた結果、大村市は軍都を形成していった。

 
 なお、市史には「軍都」について、次のような付記がある。「軍都という言葉自体に明確な定義はなく、各個人の所見に従って呼称される場合が大半である。これらのことは大村と同様に陸軍ないし海軍が常駐していた全国の自治体や地域においても同様で「軍都」や「軍郷」といった言葉を研究者・執筆者それぞれが独自に使用しているケースや使用しないケースを見ることができる」。

 

(3)前大戦中の大村に所在した旧陸海軍部隊

 大村海軍航空隊は、大正11年12月に開隊している。当初、西日本における操縦者の基礎訓練から実用機慣熟訓練までの一貫した教育を目的とした地名冠称の海軍航空隊であった。

 前大戦の後半になると、戦闘機隊の教官を中心に防空任務を担当するようになり、末期においては航空特攻を遂行する部隊となる。

 大村には、大村海軍航空隊のほかにも、いくつかの航空隊が作戦推移に応じて編成、配備されていた。それらの戦闘機部隊による「戦闘詳報」、民間団体による「管内主要都市空襲被害状況」、警防団長による日記等の貴重な史料も市史に記載されている。

 
 特に、昭和19年8月開隊した352海軍航空隊(草薙部隊)及び海軍最後の精強部隊と言われた343海軍航空隊が大村海軍航空隊と協同して北九州方面の防空等にあたっていた詳細な記録が目を引く。

 352海軍航空隊は、昭和20年8月9日長崎に原爆が投下された際、その上空まで進出して最初に航空偵察した航空部隊でもある。なお、三桁冠称の海軍航空隊のうち、300番台は戦闘航空隊を示している。


 一方、陸軍部隊については、陸軍歩兵第46連隊が明治30年から昭和20年終戦までの間、大村の地に駐屯していた。この連隊を母隊として編成された多くの連隊が、大村を拠点として各地で活躍した記録が残されている。

 詳細については、郷土出身の村井敏郎氏によって編纂された『郷土部隊50年の足跡 大村陸軍 』(昭和58年8月発行)をご覧いただきたい。

 この著書は、防衛庁戦史室(当時)の戦史叢書や戦闘体験者からの証言に基づいている。大村で編成された多くの陸軍部隊が、どのように行動し活躍したかを戦跡を追いながら、わかりやすくまとめられている。

 

4.大村の地に関わる特別攻撃隊

(1)航空特攻「神剣隊」の存在

 昭和20年米軍が沖縄に上陸した以降、日本の陸海軍は特攻化へ向けた動きを先鋭化させていく。連合艦隊司令部は、残存艦艇(戦艦大和を含む)及び残存航空機の総特攻を企図する菊水作戦を展開することとなる。


 こうした全般の戦況下にあって、大村海軍航空隊においても操縦の練成訓練を終えた特攻隊員が、部隊名「神剣隊」として編成される。

 「神剣隊」は菊水作戦の遂行中に6個隊が編成され、その後に鹿屋基地に移動、沖縄方面に向けて出撃している。しかし、大村海軍航空隊は戦局により菊水作戦半ばにおいて解隊(昭和19年5月5日)されている。このため、「第6神剣隊」は、721海軍航空隊に編入された後、鹿児島県の鹿屋基地から出撃している。


 「神剣隊」については、大村市歴史資料館から、次の一文と出撃関連資料(①~⑥の部隊毎に、出撃数等、参加作戦、出撃日の順で記載)を提供していただいた。

 
「全国各地から集まった特攻志願者は大村海軍航空隊において訓練。その終了後に、特攻部隊となる「神剣隊」として編成され、鹿屋航空隊に移動した後、沖縄周辺へ出撃した。昭和20年4月6日から5月11日の間に、「神剣隊」の6個隊が編成され、計48人が散華」。


①第1神剣隊(大村航空隊):出撃機数16機に対して未帰還16名 菊水1号作戦 昭和20年4月6日

②第2神剣隊(大村航空隊):出撃数9機に対して未帰還9名 菊水2号作戦 昭和20年4月14日

③第3神剣隊(大村航空隊):出撃機数不明(*)の中、未帰還3名 菊水3号作戦 昭和20年4月16日 *…同日、出撃した特攻部隊は3個隊(第2昭和隊、第3七生隊、第3神剣隊)、その総機数が20機で神剣隊のみの機数は不明)

④第4神剣隊(大村航空隊):出撃機数4機に対して未帰還1名 菊水3号作戦 昭和20年4月16日

⑤第5神剣隊(大村航空隊):出撃機数20機に対して未帰還15名 菊水5号作戦 昭和20年5月4日

⑥第6神剣隊(戦闘306飛行隊):出撃機数4機に対して未帰還4名 菊水6号作戦 昭和20年5月11日

 

  なお、上記のカッコ内に記された「大村航空隊」は「大村海軍航空隊」を示している。「第6神剣隊」の所属が戦闘306飛行隊となった背景については、(3)項の「桜花」等による航空特攻との関係において記述する。


(2)掩護戦闘機と「神剣隊」の関係

 市史を読み進めていくと、大村に配備された戦闘機による特攻機の掩護及び制空戦闘の状況についての記述があった。これ自体は、防衛省防衛研究所に所蔵されている『笠野原基地戦闘詳報』に基づく内容である。また、国立公文書館・アジア歴史資料センターのデータ・ベース検索でも閲覧できる。


 笠野原基地は、鹿児島県鹿屋市に配備されていた笠野原海軍航空基地である。当該戦闘詳報によると、菊水1号作戦が実施される中、先述した352航空隊、大村海軍航空隊、元山航空隊所属の零戦等が笠野原基地まで進出した上で、徳之島、奄美大島、種子島、沖縄北端に至る空域での制空任務に従事している。

 
 これら掩護戦闘機も甚大な被害を受けている様が記されている。「第1神剣隊」が出撃した4月6日付の記録は、次のとおりである。「第4波として笠野原基地を1420に発進した零戦23機のうち、1915までに帰着したのは11機、未帰還は指揮官機を含む7機。他の5機については、エンジン不調、交戦等により徳之島、喜界島、種子島に不時着」と記録されている。

 航空特攻以外においても、大村に関連する航空隊に所属する多数の戦闘機操縦者が作戦遂行のために還らぬ人となったことが偲ばれてならない。


(3)第721海軍航空隊と「神剣隊」との関係
 

 (1)項で述べた「第6神剣隊」が編入された721海軍航空隊が開隊したのは、昭和19年10月1日。原隊は、茨城県の百里原航空基地(現在の航空自衛隊百里基地)である。700番台の冠称番号は、陸攻航空隊を示している。


 当該航空隊は、攻撃708飛行隊、攻撃711飛行隊、戦闘306飛行隊、戦闘307飛行隊から編成されていたことから、「第6神剣隊」は隷下の戦闘306飛行隊に編成替えとなったものと思われる。

 
 721海軍航空隊は、1式陸攻に「桜花」を搭載して米軍艦艇に体当たり特攻を支援する航空隊で、「神雷部隊」と称されていた。

 その第1陣となった第1神風桜花特別攻撃隊神雷部隊については、20年3月21日陸攻18機及び零戦19機等が出撃、全機未帰還となった。160名が散華されている。その後6月22日の第10次まで神雷部隊による特攻は継続され、1式陸攻だけでも計79機が出撃し55機が未帰還となっている。

 細部は、加藤浩「神雷・竜巻部隊概史」「人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻」(文藝春秋、2005年3月25日)をご覧いただきたい。

 

5.地元住民と特攻隊員のふれあい

 調査活動の中で、「神剣隊」に関係する文献、証言記録等を収集していたところ、意外にも親族から「第3神剣隊」の隊員に関する情報が得られた。

 以下は、同隊の搭乗員が鹿屋基地に進出するまでの期間、妻の祖母が食事をふるまう等、もてなしていた様子を、妻が義母から聞き取った内容を基に記述したものである。

(1)昭和20年春

 特攻隊員とのふれあいを祖母が持つようになった時期、経緯や依頼主についてはわからない。昭和20年桜の開花前からの出会いがあったようである。 

 その時期、週末になると4~5人の特攻隊員が祖母の家に食事に来ていたことを当時7歳であった義母が覚えていた。祖母の家は大村市内の竹松という地域にあり、大村海軍航空隊に近い場所にあった。

 
 その中の一人が、林田 貞一郎(熊本・天草出身 甲飛4期(「神剣隊」搭乗員等の集合写真のうち、前から三列目の右から2人目)氏である。彼は、菊水3号作戦において「第3神剣隊」搭乗者として鹿屋基地から那覇湾の敵艦船攻撃に出撃し、昭和20年4月16日に戦死している。当該隊員については、全史の195頁に記載がある。

 同氏は、祖母を母のように慕い、義母を妹のように可愛がっていたと聞く。出撃日が近くなった桜の時期に、義母は隊員達から「散る桜 残る桜も 散る桜」の句を、何度も教えられ暗唱するまでになったとのこと。その様子を見て林田氏が微笑む中、祖母は涙していたそうだ。

 
 鹿屋基地への進出直前に林田氏等が祖母の自宅を訪問した際のエピソードがある。分隊士の林田氏が、航空事故で負った火傷のため大きく開けられない口で、同行隊員の分までタバコに火をつけて渡し、自らもそのたばこを吸っていた姿が忘れられないと義母は言う。


 鹿屋基地へ進出する当日には、林田氏が搭乗した戦闘機が祖母の家の直上を数度旋回したことも義母は覚えていた。その時には、林田氏の実父が彼の郷里である熊本から来られており、祖母や義母と一緒に家の洗濯干し場で大きく手を振って見送られたそうである。

 こうした家庭的な交流を持つ間、祖母は林田氏をはじめ特攻隊員の写真を撮り、その裏に日時や名前と共にメモを残していた。この行為から、祖母は彼らの任務は必死であることを理解していたことがうかがえる。


 林田氏にかぎらず特攻隊員の戦死の知らせが、どこからか届くたびに、祖母は彼らの遺品をまとめて実家等に送っていたとのこと。戦死通知は軍にとって伏せておきたい情報であるはずだが、なぜ祖母に伝えられたのかは不明なままである。

(2)平成15年1月

 祖母が昭和45年に他界するまで林田氏の弔いとして続けていた事があったと祖母の孫にあたる私の妻が語ってくれた。祖母は、林田氏の月命日に必ず仏壇に手造りの「おはぎ」を供えていたとのことだ。それは、林田氏から「もし自分が戦死したら、大好きなおはぎを命日に供えてほしい」と頼まれていたからだと祖母がある日、妻に話してくれたそうである。


 平成15年になって、義母の長男が母親を連れて鹿児島を旅行することを申し出た際、義母は旅行に合わせて特攻隊関連の歴史資料館を訪問することを希望したそうだ。それは、林田氏を中心に撮った写真(祖母による裏書きあり)が唯一手元に残っていたため、供養になればとの思いがあったからである。

 
 義母と長男は、同年1月16日に知覧特攻平和会館を訪れている。なぜ林田氏が出撃した鹿屋基地に隣接する鹿屋航空基地史料館が訪問先にならなかったのか。このことを確認したところ、林田氏の出撃基地が鹿児島方面だったという記憶と、それならば知覧にある特攻平和会館ではないかとの思い込みがあったとのこと。結果として、当該写真を同会館に寄贈し帰省している。

(3)令和3年12月

 今回の一連の調査では、妻の祖母が知覧特攻平和会館に寄贈した写真の存在を確かめることが重要なポイントの一つとなった。これまで関係者による生前の特攻隊員に関する単なる記憶であったものが、物証を得ることで確か

な証言になるからだ。
 
 私と妻は事前に入館の予約を取った上で、令和3年12月7日知覧特攻平和会館を訪問。同館学芸員・八巻聡氏に対応していただき、義母が寄贈した写真の写し(寄贈写真そのものは所在がわからず)をコピーしたものを受け取ることができた。


 まず、写真の中央(大人列の右から三番目)が、林田貞一郎氏。一番左が妻の祖母で、子供は義母である。なお、大人列の一番右は「眞砂上飛曹」、右から二番目は「小田部久左衛門」、祖母の右側の女性は「郁子さん」と裏書きされている以外、詳細は不明である。


 肝心の裏書きについては、写真を貼っていた糊痕のために一部判読できないが、以下の事が記述されている。これは祖母の直筆である。判読困難な部分は*印を付けた。

   

『昭和20年4月8日写

 林田貞一郎分隊士、特攻隊として沖縄に出陣 12日出発。4月16日見事敵艦に命中、24才の若櫻花と散りけり。 林田の兄ちゃん 忘れがたき修養せし人

 ニックネーム 坊やノ人*

 眞砂上ヒ曹(***)、小田部久左衛門(**)、**一家の*人だった。****郁子さん、綾子***ので、林田の兄ちゃんの意志を忘れず***張りませう』

 

 林田氏が鹿屋基地から出撃する4日前の写真からは、様々な事を想像してしまう。林田氏だけが搭乗前の飛行服をなぜ着用していたのか、微笑んでいるようにも見えるのはどうしてか、そしてどのような心境だったのか。
 甲飛4期で分隊士となれば熟練の操縦者であっただろうになぜ志願したのだろうか、それは顔の火傷と何か関係があるのか。大村海軍航空隊では分隊士兼ねて教官が多かったとの記録もあることから、教え子に対するなんらかの思いがあったのではないだろうかと。


 ちなみに、知覧特攻平和会館内において紹介されている電子版の隊員情報には、この写真から本人の顔だけを拡大したものが掲載されている。


 翌日12月8日早朝に鹿児島市内を出発し、鹿屋航空基地史料館に向かった。同資料館では、研修教育等担当の山森正彦氏に出迎えていただき、林田氏にかかわる一連の資料を拝見させてもらった。ここでは、平成7年9月に遺族の方が寄贈された林田氏の遺影と熊本にある林田氏の墓石に刻まれている辞世の句(下記のとおり)をそれぞれ写しでいただくことができた。

 

『敷島の大和男児が腕を撫し 嗚呼待ちたるぞ今日の出陣 いざさらば桜と共に吾は征く 御国を護る靖国の宮』

 

 この時の鹿児島における調査活動は、私はもとより妻にとっても感慨深いものであったようだ。妻にしてみると、戦時中における祖母の生き様の一端を知ることができたとともに、特攻隊隊員の生前の姿をうかがい知ることで特攻に関する理解を深めることができたのではないだろうか。

 

6.大村出身の特攻隊員に関する調査とその結果等

 先述の「神剣隊」戦没者については、全史における出身県を調べた限りでは長崎県の記載はない。このことを知った時に、大村市の出身で特攻隊戦没者の方がおられたのかについて、併せて調べることを思いつく。大村市歴史資料館に問い合わせたところ、これまでに大村出身の特攻隊員をテーマにした文献はないとのことであった。
 その際、同資料館からは長崎県下及び大村市の戦没者名簿から記録をたどることは可能ではないかとの提案をいただいた。


 そこで、同資料館から紹介してもらった2冊の図書(戦没者名の記載あり)と、全史第2編・特別攻撃隊戦没者名簿を照合することにした。

 紹介図書の一つは、『風雪の塔』という長崎県連合遺族会発行の図書で、同会の創立25周年を記念した製作された特集(昭和47年7月)号である。もう一つは、『ふりむいて』という大村市遺族会が戦後50周年記念誌として発行(平成7年8月11日)したものである。ただし、この図書は、明治10年西南の役以降、大東亜戦争に至るまでの戦没者及び遺族を対象とした名簿になっている。


 これら3冊を照合した結果、2名(①少尉・晦日 進 ②兵曹長・深江 正市)の方が該当することがわかった。ご両名にかかる情報を整理した結果は、次のとおりである。

 
 ①晦日 進 氏:全史の該当頁は198頁。「海軍航空特別攻撃隊・第5七生隊、昭和20年4月29日、沖縄島北端120度60海里にて戦死」との記載あり。紹介図書に記載された戦死場所、戦死年月日、年齢と一致するほか、海軍大尉への昇進、勲5等双光旭日章の受章と実家の住所等が明記されている。

 ②深江 正市 氏:全史の該当頁は234頁。「特殊潜航艇・日本本土西部、昭和20年6月22日、呉工廠にて戦死」との記載あり。また紹介図書には戦死場所「内地」及び実家の住所との記載のほか、戦死年月日が昭和20年7月22日とある。


 この照合結果から、①晦日氏は、記載事項の全てが一致することから確定してよいと考える一方、②深江氏については、戦死日がちょうど1か月異なるため、同一人物と認定することは現時点では難しい。ただし、呉工廠造兵部が空襲されたのは、昭和20年6月22日であることは事実である。

 

7.各地の歴史資料館等と連携して得られる特攻史の成果等

(1)調査の総括

 私の郷里である大村市歴史資料館から届いた1本のメールを皮切りに、大村市にかかわる特攻史を調べることになった。当該資料館の全面的な協力が得られたことで、設定した調査を順調に進めことができた。ここであらためて明らかにできた事項といまだ不明な事項等について総括する。

ア 海軍航空特別攻撃隊にうち、6次にわたる神剣隊は、大村市内に所在した大村海軍航空隊において訓練、編成された。ただし、第6神剣隊に関しては、大村海軍航空隊が5月5日に解隊されため、出撃前に721海軍航空隊に編成替えとなった。

 なお、大村海軍航空隊跡地に戦後建設された陸上自衛隊竹松駐屯地において、現地取材を行った際に、同駐屯地・勤務隊員の協力によって、6頁に掲載した「神剣隊」の集合写真が撮影された場所をほぼ特定することができた。


イ 神剣隊の搭乗員達が鹿屋基地に移動するまで滞在していた大村の地において、週末に航空基地周辺の住民と交流があったことが地元関係者からの聞き取りにより、その一部を明らかにすることができた。

 特に、戦後も地元住民が保管していた第3神剣隊の分隊士として出撃した甲飛4期の林田貞一郎氏等の写真は貴重な記録であった。その写真自体は、私の親族により平成15年1月に知覧特攻平和会館に直接届けられ、現在も同資料館に保管されている。遺影として掲示されていることもわかった。


ウ 前項の関連で、当初海軍の航空特攻であれば、義母等は鹿屋航空基地史料館に写真を寄贈したと判断したため、同館に調査を依頼。しかし、この判断は誤りであったが、平成7年に林田氏の実弟と従弟が同館に遺影を寄贈されたことを知ることができた。その際、林田氏の墓石に刻まれた辞世の句を確認できた。


エ 全史に記載されている特攻戦没者名簿と大村遺族会名簿を突合することで、特攻戦没者の中に大村市出身者2名がおられることを確かめることができた。晦日進氏は、海軍航空特別攻撃隊・第5七生隊の出撃(昭和20年4月29日)で散華されたことがわかった。

 深江正市氏については、特殊潜航艇関連で呉工廠において戦死されている。しかし、戦死日に関して、全史では昭和20年6月22日とある一方、遺族会図書には同年7月22日と記され異なっている。

 なお、戦死日の異なる点については明らかにできなかった。


(2)各地の歴史資料館等との連携による特攻史の調査研究に寄せる期待

 近年、当会の調査研究グループ(現在員7名)は、ほぼ単独で調査命題を設定した上で成果を求める地道な作業を行ってきた。この作業要領はかなりの時間と労力を要し担当会員個人の負担が大きい。その上に、今後は特攻隊戦没者遺族からの直接的な協力が得難く、潜在すると思われる貴重な特攻隊関連資料を入手する可能性はますます低くなる。

 
 こうした中、今回は期せずして、地方の歴史資料館・学芸員等の積極的な協力支援が得られたことで調査を進める機会に恵まれた。これまで知られていなかった点及び不明確であった点を、明らかにすることができた。しかも従来の要領に比してかなり効率的であった。


 今回のような地方の歴史資料館等と当会によるコラボレーションが特攻史の調査研究にもたらす効果としては、次の点が挙げられる。

ア 各地の歴史資料館等には、特攻をはじめ戦時中の記録資料が秘蔵の状態で、かなり保管されている可能性が高いこと。

イ 歴史資料館等で勤務する学芸員等の知見は高く、特攻に関しても有力な情報の提供を期待できること。

ウ 特攻史に関連する資料・データの収集並びに調査要領の検討等に費やす時間を短縮することができること。

 
 当会の調査研究グループの長を務める者としては、まずは今回行った情報収集及び調査のやり方を一つのモデルとして確立させたい。その後は、当会独力の調査研究に加えて、地方の自治体及び歴史資料館等との連携を重視した方法により、これからも散逸し続ける特攻史にかかる貴重な記録を発掘していくことで実績を上げていくことを望んでいる。


(3)栄都へ発展した大村市の現在の姿

 私が郷里で過ごした小中高生時代の昭和40年から50年初め、大村市は人口5万人で推移したが、今や10万人に達するほどの都市と呼ぶにふさわしい発展ぶりである。全国的に少子化が進む中にあって、2025年には人口10万人を目指している。

 現在、園田裕史市長のもと第5次大村市総合計画が推進中である。「しあわせ実感都市大村」をスローガンに、「行きたい、働きたい、住み続けたい」を将来ビジョンのテーマに掲げ、市民と共に幸せを実感できる街づくりを取り組んでいる。


 今年は、大村市にとって市制施行80周年の大きな節目の年にあたり、様々な事業が市の発展・繁栄に向けて取り進められている。中でも今秋には西九州新幹線の開業が予定されアクセス環境が良くなることで、経済効果が高まるとの期待がある。


 その発展を象徴する一つに、冒頭で触れた令和元年10月に新設された「ミライon【onは全角小文字でお願いします】」がある。同施設は、長崎県立・大村市立一体型図書館と、大村市歴史資料館との複合施設である。この施設では、運営にあたって「郷土(ふるさと)の歴史と文化に親しみ」を掲げていることから、ぜひ前大戦時の苦難の歴史もテーマに取り上げていただきたい。

 今回の調査結果が当会の会報に掲載されたならば、協力先である大村市歴史資料館に寄贈するとともに、「ミライon」において多くの市民の目に留まることを期待したい。
 
 結びにあたり、大村の地を離れて半世紀近く経つ今日、特攻隊戦没者の慰霊顕彰を目的とした一連の調査活動を通じ、再び郷里に想いをはせることができたことに心から感謝したい。

 
 特攻にかかる調査研究は、これからいっそう困難な活動となるであろう。それでも地方自治体及び各地の歴史資料館等の協力が得られれば、私自身の当該活動への取組み意欲は高まり、新たな成果を求める自信と行動力になる。次なる「身近なる特攻史」の対象となる市町村等が、この記事がもとで早期に定まることを切望する。

林田貞一郎氏を中心に撮った写真
上の写真の裏書

旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者の追悼に併せ、現地戦跡等を探訪(令和2年4月4日)

1 追悼式中止の連絡を受けて

 令和2年4月4日(土)、鹿児島県鹿屋市今坂町・小塚公園内に建立されている慰霊塔前において「旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者追悼式(以下「追悼式」)が斎行される予定であった。
 
 しかし、年初から発生した新型コロナウイルス感染予防上の観点から、当該追悼式は残念ながら中止となる。前月には、東京都慰霊協会が主催する東京大空襲の日に合わせて開催される「平和の日記念式典」、政府主催の東日本大震災の追悼式が相次いで中止。

 こうした行事の参列者には高齢者が多く重症化するリスクを回避する上で適正な対応と言える。その一方で主催側にとっては苦渋の決断であったはずである。

 
 鹿屋市から追悼式の斎行中止の一報を受け、鹿児島への出張を取止めることを思案していたところ、追悼式が予定されていた当日、現地では献花台が設置されるとの知らせが届いた。これを一つのきっかけとして、鹿屋市内の特攻関連戦跡等を訪れ、それらの現況を把握することを主な目的に鹿屋行きを敢行した。

 これは、その際の行動概要及び若干の所感を記したものである。



2 空陸路により鹿児島・鹿屋市へ

 4月3日(金)、穏やかな日和の下、羽田空港を出発して一路鹿児島空港に向かう。鹿児島空港は、我が国南西域の島嶼防衛及び南海トラフ対応等、安全保障上の極めて重要な拠点の一つ。
 
 昭和47年、現在の地に開設されるまでは、鹿児島市の中心にほど近い鴨池地区に在り、戦争中は海軍航空隊鹿児島基地として運用され、特攻隊の出撃基地でもあった。

 
 追悼式を主催する鹿屋市は、鹿児島県大隅半島の中央部に所在し、桜島から南東へ約20㌔に位置する人口約10万の都市である。鹿児島空港及び鹿児島市内と同市の間の公共交通機関としては、バスとフェリーが運航されており、ちなみに鹿児島空港から空港バスを利用した場合は約100分と関係ウェブ上で案内されている。



3 鹿屋市内の特攻戦跡を巡る

 その日の午後に鹿屋市内に入り、鹿屋市観光協会のホームページに掲載されている関連情報を基に、いくつかの前大戦の戦跡を巡ることができた。その一つ、桜花の碑(野里国民学校跡)を紹介する。
 
 戦末期、「桜花作戦」を行った神雷部隊は、鹿屋市に所在した野里国民学校を宿舎としていた。同部隊の特別攻撃隊員たちが別れの盃を交わした、この地に碑が建てられている。揮毫したのは、当時報道班員として神雷部隊と生活を共にした作家・山岡荘八氏である。

 
 神雷部隊とは、特攻兵器「桜花」、その母機一式陸攻、その掩護戦闘機から成る、昭和19年10月に編成された第721航空隊の別称とされている。

 
 なお、今年3月21日、北鎌倉の建長寺内で挙行予定であった神雷部隊慰霊祭もウイルス禍にかんがみ、取り止めとなった。


 
4 鹿屋基地史料館の見学できず

 旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者慰霊塔が建立されている平和公園(鹿屋市有里)から海上自衛隊鹿屋基地資料館に移動。閉館については事前に知らされていたが、鹿屋市内にあって、特攻にかかる資料及び展示において同館の存在は大きく、とうしても立ち寄りたい場所であった。
 
 同館内には特攻隊員に関する貴重な資料だけでなく、旧日本海軍創設期から先の大戦、現在の海上自衛隊に関する展示品まで整然と陳列されていると聞き及ぶ。開館中であれば、ベテランの館員による分かりやすい説明を受け、見識を深めることができたと思う。



5 例年追悼式が挙行される公園にて

 追悼式会場となる小塚公園は、鹿屋市役所から約3㌔、海上自衛隊鹿屋基地に隣接する鹿屋基地史料館からは約2㌔の場所にある。当該公園の正面から徒歩3分の小高い場所に高さ11mの正式名称・旧鹿屋海軍航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊碑が聳え立っている。
 
 訪れた当日は、気温20度以上、微風といった気象状況の下、慰霊碑の周囲で開花し始めた桜花が英霊を偲ぶ趣ある風景を作り出していた。
 なお、『特別攻撃隊全史』には旧鹿屋基地について次のように記載されている。

 
 「鹿屋基地は海軍の沖縄作戦における中継基地となり、昭和20年2月第5航空艦隊司令部が置かれた。昭和19年7月には空地分離で基地は九州空の管轄するところとなっていた。この基地から昭和20年3月11日、菊水部隊梓特攻隊が西カロリン諸島ウルシー泊地の米機動部隊攻撃に突入したのを皮切りに…(中略)…合計67隊、447機、755名の猛攻を記録している」



6 碑文に込められた歴史認識

 慰霊塔の基礎部分には碑が設置され、次の碑文が刻まれている。

『今日もまた黒潮おどる南洋にとびたちゆきし友はかえらず
 太平洋戦中 鹿屋航空基地より飛びたち肉弾となって散った千有余の特攻隊員
 御霊よ安かれ 必ずや平和のいしずえとならん』

 
 碑文について先の史料館に問い合わせたところ、長きにわたり衆議院議員として活躍された後、戦中・戦後に鹿屋市長を務められた永田良吉氏が揮毫されたとのことである。
 この碑を眼にした時、昨年4月に同じ鹿児島県の出水市特攻碑慰霊祭に参列した際、作家・阿川弘之氏の小説から取ったとされる碑文「雲こそわが墓標 落暉よ碑銘をかざれ」を思い出した。あの時以来、碑文に大いに関心を持つようになった。

 
 いずれに碑文も戦争の正当性と特攻の意義と英霊の鎮魂が整斉と刻まれており、特攻に対する正当な歴史認識を体現している象徴と言える。


7 来年の追悼式参列を期して

 鹿屋市内の戦跡地を後に、東京への復路便に間に合うように鹿児島空港に向かう。道すがら至る所に戦跡や慰霊碑が目に入るたびに生前の実父を思い出す。実父は厚労省から取り寄せた軍歴の写しによると、昭和19年9月15日、第15期甲種飛行豫科練習生としての初度配置先が鹿児島航空隊であったからだ。
 
 今年2月、同会の事務所において甲飛古武士会編纂の「甲飛古武士 栄光の翼」を眼にする機会があった。その中に『翼なき甲飛予科練』甲飛第15期のプロフィールには、次のような記載がある。

 
 「昭和19年9月15日、24,461名が土浦空、鹿児島空、奈良空、三重空、松山空、美保空、滋賀空に入隊。10月、1,999名が美保空に入隊。11月15日、692名が横通校、防通校、電測校に入隊。12月20日、1,420名が防通校に入隊。そのあと戦況悪化の影響を受けて教育訓練が中止され、小富士空、姫路空、大村空ほかの基地に転隊、戦備作業、伏竜特攻、陸戦隊等の要員として配属された。」

 
 この図書は、私にとって実父の軍歴と符合する貴重なものとなった。おかげで、生前実父が語らなかった戦時中の足取りの一部を掴むことができた。

 戦後70年が過ぎた現在にあっても、関係資料の研究や調査を進めていけば関連した事実を見出すことができるのだと実感した。

 結びに、旧鹿屋航空基地慰霊祭がパンデミック事態のため、やむを得なかったとは言え、中止になったことが惜しまれる。来年、追悼式が挙行される日に、格別の思いを持って再び鹿屋市・小塚公園を訪れ式典に参列することを切望したい。

    山岡荘八氏揮毫の桜花の碑
    海上自衛隊鹿屋航空基地資料館
     小塚公園内の慰霊碑
      慰霊塔直下の石碑

令和元年第7回福岡県特攻勇士慰霊顕彰祭に参列して(令和元年5月11日)

1 慰霊顕彰祭の概要

 令和元年5月11日(土)、「第7回福岡県特攻勇士慰霊顕彰祭」(以下「慰霊顕彰祭」)が、福岡市の中心部にある福岡縣護国神社(中央区六本松1丁目1番1号)内の参集殿において催行された。


 文献によれば、福岡縣護国神社の起源は、明治元年11月福岡藩第12代藩主黒田長知(ながとも)が戊辰戦争に殉じた藩士132人の慰霊顕彰のために、妙見・馬(まい)出(だし)招魂社を建立したことにあるとされている。 

 
 当該神社へのアクセスについては、バス、地下鉄、私鉄と複数の公共交通機関の利用が可能である。私自身は、福岡県有数の観光地であり、福岡市民の憩いの場でもある大濠公園内を散策したいとの思いもあって、地下鉄空港線の大濠公園駅で下車して福岡縣護国神社に向かった。気温24度、湿度55%、風速2m程度と、少し汗ばむ陽気の下、徒歩約15分の道程であった。

 
 受付手続きを済ませ、開式までの間に境内の史跡等を見学してみた。昭和20年6月の福岡大空襲の際にも焼失せず、創建時の姿をとどめている桧の原木で造られた大鳥居が特に印象的であった。

 その後、開式に先だって、持参の御朱印帳に神紋印と社号印を賜り、奉拝の証とさせていただいた。

 
 今年の参列者は主催者によれば200名超えたとの事。昨年が約200名であったことから、元号が令和に変わった節目の年に当たったことと、快晴に恵まれたことが微増に繋がったと考える。

 
 慰霊顕彰祭(祭典之部と式典之部の二部構成)は、定刻の11時に祭典之部からの開始となった。国旗敬礼、国歌斉唱、黙祷に引き続き、神事として修祓之儀、降神之儀、献饌之儀が執り行われた。田村豊彦宮司による祝詞奏上の後、祭主である福岡県特攻勇士慰霊顕彰会会長・塚田征二氏から、将来にわたる慰霊顕彰の必要性と国民の道徳教育の強化を主旨とした慰霊の言葉が述べられた。さらに玉串奉奠、轍饌之儀、昇神之儀と続き、約1時間で祭典之部を終了。

 
 休憩等を挿んで催された式典之部では、追悼電文の奉読後にソプラノ歌手及び博多券番ご一同による奉納、参列者全員での「同期の桜」を奉唱。いずれも英霊の顕彰に相応しい選曲と演目であった。

 
 式典之部の終了にあたり、遺族代表・吉江正春氏が、散華された従兄弟のありし日を偲びながら、自衛隊の精強性を維持する必要性とあくまでも戦争回避を貫く国家の姿勢を強調された。   

 

2 所見

 福岡縣護国神社は、12万㎡の広大な敷地を有し、緑豊かな杜に囲まれているゆえに、神聖さを強く意識する存在である。同社の宮司である田村豊彦氏は、福岡県内に所在する筥崎宮の名誉宮司である田村泰邦氏の弟御にあたられる。

 
 私自身は、平成24年夏から1年の間、航空自衛隊西部航空方面隊(司令部は福岡県春日市に所在)で司令官を務めていた際、筥崎宮には我が国の平和はもとより、福岡県民並びに部下隊員の安全、各種任務の完遂の祈願等で何度も参拝させていただいた。この点ではすでに当時から福岡縣護国神社との縁があったわけであり、今後、来福時には護国神社並びに参集殿の傍らに建立(平成24年12月8日)されている特攻勇士之像の奉拝を心がけたい。

 
 今回、参列して個人的に印象深かった二つの点を簡単に述べてみたい。

 まず、戦没者慰霊行事に地域住民等の参集効果を高めることを意味する「公共性」についてである。式典之部で奉納された催しは、芸能文化の高いレベルにあり、和やかな中にも慰霊顕彰を見事に表現されていた。戦没者のご遺族の参加が年齢的な制約もあり極めて少なくなる中で、主催者が公共性を慰霊行事に如何に取り込むべきについて尽力されていることを直会において知ることができた。

 
 二つ目は、戦没者慰霊に関する「地域性」について考えてみた。護国神社での慰霊顕彰祭は、数多くの関係団体が参画し、これらが組織的に運営されている様は、現代における慰霊顕彰の理想的な形であろう。このことは、今日の福岡縣護国神社が担う役割が、地域住民の方の意識の中に定着しているからではないかと推察する。
 この遠因としては、福岡藩が戊辰戦争の戦死者を功績として評価した時から始まったようにも思える。

 
 国家や帰属する藩・県といった自治組織の平和や安定のために自らの命を賭して戦った英霊を奉る行事等に、福岡県民が積極的に参加している実状は、まさに明治時代から受け継がれている福岡の地域性によるものではないだろうか。

 
 地域性の観点では福岡県の各所に、大東亜戦争に関係する記念館及び記念碑が多く整備されている。代表的な歴史資料館の一つである筑前町立大刀洗平和記念館は、護国神社より南東へ約30㌔離れた旧陸軍大刀洗飛行場の跡地に建ち、管理運営されている。
 また記念碑に関しては、私事であるが、冒頭に述べた航空自衛隊春日基地で指揮官として勤務していた時期に次のような経験がある。

 
 予科練であった実父が昭和19年11月から20年3月までの間、訓練に明け暮れていたであろう福岡航空隊の地を無性に訪れたくなったことがあった。

 
 同航空隊は、関係資料から福岡県の北部にある糸島半島付近に存在していたことがわかり、現地を訪れてみた。すでに飛行場及びその施設の跡形は全くなく、比較的広大な平地に住宅地が造成されていた。中心部に、さほど大きくない公園があり、その一角に先の大戦中に同航空隊が存在したことが記された碑を見つけることができた。

 
 この碑は、自ら所属した部隊が歴史から忘れ去られることのないようにとの思いから、当該航空隊関係者が製作、設置されたものではないかと思い巡らせながら、生前の父への懐かしさも手伝って、しばらくその場を離れることができなかった。顕彰のための碑を公園内に設置するにあたっては、地域住民の方々による戦史の顕彰に対する深い理解がきっとあったはずである。

     福岡護国神社の大鳥居
      福岡県特攻勇士之像

第60回出水市特攻碑慰霊祭に参列して(平成31年4月16日)

1 慰霊祭の概要
 平成31年4月16日(土)、「第60回出水市特攻碑慰霊祭」(以下「慰霊顕彰祭」)は、鹿児島県出水市平和町特攻碑公園内の特攻碑前で執り行われた。


2 所見

 航空自衛隊・西部航空方面隊司令官として、私が鎮西の防空任務に就いたのは、平成24年夏からの一年。この間、同司令部の准曹士先任(航空方面隊で勤務する、いわば下士官の最先任者)の職にあった信頼する部下と共に、大東亜戦争時、九州管内に所在した海軍航空基地に関する文献・資料等を勤務時間外に探し回ったことを思い出す。私達が意気投合したのは、彼の父が私の実父と同期の桜で第15期甲種飛行豫科練習生であったからである。

 
 実父は昭和19年9月15日に鹿児島航空隊に入隊している。その後所轄替えで異動になるまで一か月半の間、同航空隊に所属し、日々悪化する戦況と不足する兵器・物資の中で苛烈な訓練に臨んでいたようだ。
 こうした個人的関心もあって、特攻隊戦没者慰霊顕彰会の評議員となって2年目の今年、鹿児島県内で催される慰霊祭等への参列を切望して出水(いずみ)の地を訪れた次第である。

 
 出水市慰霊祭において、顕著であったのは「顕彰性」ではないだろうか。主催者、ご遺族、関係団体、さらには市民の方がそれぞれの立場で、特攻戦没者が我が国の存亡をかけて挑んだ必死の使命を戦後時代が進む中で、多くの方々に知らしめるべきとの気概を強く実感させられた。

 
 中でも椎木伸一出水市長にあっては、前任者である渋谷俊彦氏の特攻隊戦没者慰霊にかかる意を受け継がれ、地域の発展を担う青年、学生、児童等に今日の郷土が如何に安全・安定の中で存続しているかを教え導こうとされる積極的な姿勢がうかがえた。
 特に、基地跡の掩体壕及び資料館の整備等に予算を確保して歴史観を醸成する具体的な行為を進めていくことを特攻碑顕彰会会長として慰霊のことばを述べられたのが印象的であった。

 
 当該慰霊祭では、碑文に注目してみた。碑は、歴史認識を体現すると言われる。戦没者慰霊の碑は、戦争の正当性と特攻の意義が整斉と刻まれている場合が多い。この出水市における特攻戦没者の碑には、「雲こそわが墓標 落暉よ碑銘をかざれ」とあり、作家・阿川弘之氏の小説「雲の墓標」から取ったものされている。

 慰霊祭に参列するにあたり、私はあらためて同小説を読み返した。主人公が旧友に宛てた遺書の一文である。憂国の士が旧き友にこれまでの親交を吐露しつつも、現世に未練を残さず国家の大義に身命を賭す心情がひしひしと伝わってくる。

 
 この碑文を読むにつけ、夕日に彩られる雲を見るたびに、航空特攻により散華された若き英霊に思いを寄せ、心穏やかに供養したい気持ちが自然に込み上げるのである。

 
 私自身、防衛大学校の同期生で戦闘機の操縦者のうち、2名が殉職している。一人は、昭和63年6月石川県小松沖の訓練空域でF-15編隊長として対戦闘機戦闘訓練中に、もう一人は平成6年10月釧路沖地震に伴い、RF4偵察機での実任務飛行中、北海道長万部町静狩峠付近で、それぞれ永い眠りについている。
 彼らの供養は日々自宅の仏壇に向かって行ってきたが、これからは夕日に映える雲を眼にする際には、墓標として彼ら亡き同期生に語りかけることにしたい。

        特攻碑の碑文

平成30年度回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式に参列して

1 追悼式の概要

 平成30年11月11日(日)、「回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式」(以下「追悼式」という)が山口県周南市大津島に建立されている回天碑前において催行された。

 
 式典会場となった回天記念館は、徳山港から南西へ約10キロの沖にある大津島に所在する。

 徳山港と大津島の間は、巡航船が定期的に運行されており、式典会場の最寄り港である馬島港までは最短で20分弱である。この日、大津島への移動にあたっては、臨時増便(9時発)の「鼓海Ⅱ」に多くの参列者と共に乗船し、穏やかな海上を馬島港に向かった。


 当日の気象は、気温20度前後、湿度60%強、風速1m程度と、絶好の秋日和。港から式典会場までは、徒歩で約10分である。受付手続きを済ませた後、回天記念館内を見学するとともに、島内に整備されている遊歩道を利用して、「展望広場」(山頂で周辺が一望できる憩いの場。「未来の風」というモニュメントが設置されている)と「魚雷見張所跡」(戦時中、宇部沖に向けて発射される魚雷を観測した場所)に足を運んでみた。

 
 今年度は、維新回天の偉業が成就して150年、また回天記念館設立から50年となる節目の年ということもあり、参列者は300名を超えたと思われる。ご遺族約60名をはじめ、官公庁、企業、関係の団体及び個人、総勢約120名の出席に加え、一般の多くの方が参列された。

 
 追悼式は、強い陽射しの下、定刻の11時半に始まる。国歌斉唱、黙祷に引き続き、回天顕彰会会長・原田茂氏が式辞を述べられた。続いて、周南市長・木村健一郎氏、海自第1潜水隊群司令・佐藤広憲1等海佐、山口県知事(代理者)の3名の方からは、次世代への慰霊継承の重要性を主旨とした追悼の言葉があった。

 
 周南詩吟連盟下の峯誠吟詠会による献吟の後に、地元中高生の補助を得ながら、参列者全員による献花が行われた。この間、海自小月教育航空群所属のT-5練習機、空自第12飛行教育団(防府北基地)所属のT-7の各3機が、編隊を組んで会場直上を追悼飛行した。

 
 追悼電文の奉読後には、長谷川力雄氏による尺八献奏、平和の島スピーチコンテストにおいて最優秀賞に選ばれた末武中2年生・怒和桃子さんによるスピーチ、さらには大徳山太鼓「回天」保存会による太鼓演奏の献納が行われた。

 
 式の終了にあたり、回天顕彰会会長からは、地元の若い世代が積極的に戦没者に対する顕彰行為を継承している旨を述べられるとともに、遺族代表・塚本悠策氏にあっては、現代が追悼にかかる世代交代の時期にあることに加え、回天搭載潜水艦乗員が回天烈士に9倍する英霊となっている事実を、結びの挨拶の中で、あらためて強調された。   

 

2 所見

 大東亜戦争における戦没者のご遺族及び関係者が高齢化するとともに、我が国において少子化、就労人口の減少といった社会変化が加速化する近年、戦没者の慰霊顕彰という行為を組織的に、体系的に、継承することが困難な情勢になって久しい。

 
 こうした情勢変化を受けて、戦没者慰霊について我が国全体が大きな転換点を迎えていることを多くの方が承知している。しかし、現実は深刻で、将来的に戦没者慰霊に関わる諸行事及び各地に所在する慰霊顕彰施設が、急速に衰退していくおそれがある。

 
 したがって、世代を問わず先述の戦没者慰霊顕彰の先行き不安について警鐘を鳴らし続けるとともに、とりわけ十代、二十代といった若き世代が慰霊顕彰の行為を継承していかねばならない。

 
 私自身、戦没者慰霊の世代継承を図っていく上で重要となる観点が三つあると考える。

 
 一つは、歴史観である。いわゆる学校教育、家庭教育と共に、我が国が過去関与した戦争・紛争に関する正しい史実を、学生及び児童に積極的に学ばせ、国際常識に基づく史観を育ませる。

 
 二つ目は、顕彰性である。若き世代が先述の歴史観を持つにとどまるのではなく、顕彰の場である慰霊祭及び追悼式への参画を促す。

 
 三つ目は、公共性である。戦没者慰霊にかかる行事に、地域住民等の参集効果を高めるための催事を加味していく。ただし、戦没者慰霊の本来意義が決して薄れることがないように十分な配慮を欠いてはならない。

 
 各地域の特性に応じた公共的、文化的なイベントを式典に融合し、地域住民はもとより多く方々に親しまれる工夫が必要であろう。

 
 これらの点を今次、参列した追悼式に照らしてみると、実に良く考慮されているとの実感を持った。戦没者慰霊に関する世代継承を地道に、着実に行い得ている式典のひとつであると言えるのではないだろうか。

 
 平和の島スピーチコンテスト、大徳山太鼓演奏、ピースカップ回天メモリアルヨットレース、回天搭乗員等の氏名を刻んだ銘石への墨入れ等、既に実行されているこれらの行事は、戦没者慰霊が新しい形態に移行していく中で、今後とも明るい展望を開いていくと確信している。

    馬島桟橋に接岸する巡航船
     大津島の魚雷見張所跡
       大津島の回天碑
 展示された「回天」前のスピーチ入賞者

埼玉県特攻隊慰霊碑に参列して(平成30年10月31日)

1 慰霊祭の概要

 平成30年10月31日(水)、「埼玉県特攻隊慰霊祭」が埼玉縣護國神社(さいたま市大宮区大宮公園に所在)内の「特攻勇士之像」前において催行された。当慰霊顕彰会の代表として、今年度は福江及び倉形両評議員が参列した。

 
 埼玉縣護國神社までは、最寄り駅である東武アーバンパークライン北大宮駅から徒歩約5分の道程である。気温20度前後、湿度40%、風速1m程度の秋日和の下での慰霊祭となった。


 当該神社自体は、車道に面するものの閑静な地にある。その日当たりの良い一角に特攻勇士之像が建立され、慰霊祭当日でちょうど5年が経過したことになる。

 
 一昨年及び昨年にあって、当慰霊祭にそれぞれ17名の方々が参列されたと聞き及んでいたが、今年は26名と例年規模での参列を賜った。

 
 このように参集いただけたのは、好天もさることながら、今年から埼玉県特攻勇士之像奉賛会(当会会長は、特攻隊戦没者慰霊顕彰会の岩成評議員、事務局長は秋山評議員)が共催になったことに加え、埼玉県特攻勇士之像慰霊顕彰会会長・関根則之氏をはじめとする関係各位による働きかけがあったおかげである。


 慰霊祭は、予定時刻の11時に及川評議員の進行の下、国歌斉唱をもって厳かに始まった。その後の式次第として、黙祷、修祓、献饌、祝詞奏上、祭文、玉串奉奠、撤饌と続き、最後に関根会長より参列者の方々への御礼を含むご挨拶をいただき、約40分にわたる祭式は滞りなく終了した。

 
 その後、場所を社務所2階に移し、直会に先立って関根会長から、日本国として、その国民として特攻戦没者の慰霊に関わるあるべき姿勢をについての考察を拝聴する機会を得た。

 
 講話の主旨は、次のとおりである。
「現代日本の社会において、高齢化が進む中、戦没者慰霊に関する若き世代への継承こそが重要である。国難に身を投じた故に英霊となった方々を靖國神社や各地の護国神社において慰霊し続けることは現代に生きる我々にとって「約束」である。この約束を果たすことは国家及び国民の責務である。全世界的に国に為に為すことが蔑ろにされているようにも思える昨今にあって、日本国、同政府、そして同国民は自国の国益を、豊かさを追求すべきである。」約1時間の昼食会を兼ねた直会は、参加された方々の活動状況を互いに伝え合う場としても活用され、和やかな雰囲気のうちに終わり散会となった。


2 初参列しての所見
 遺族・関係者が高齢化し顕彰行為を継続することが極めて困難となっている近年、関根会長が主張される大東亜戦争における戦死者との「約束」を果たすという観点で、我が国は大きな節目(転換点)を迎えて久しい。
 
 今後は、戦没者慰霊に関わる諸行事及び各地に所在する慰霊顕彰施設が、急速に衰退していくおそれがある。したがって、私を含む戦争未体験の世代が、中心となってこのことに対する警鐘を鳴らし続けることが必須の時代である。
 
 今回、祭文を読み上げる役目を仰せつかったことは、軍歴ある実父を持つ私にとって極めて光栄であった。これにより、埼玉県出身の陸海軍特別攻撃隊員104柱の英霊に対して直接心からの感謝と敬意を捧げることができたとともに、日本の行く末を見据え、平和にして繁栄を遂げる日本であるよう尽力する先達とならんことを誓うことができた。

第52回「特攻殉国の碑」慰霊祭に参列して(平成30年5月13日)

1 慰霊祭の概要
 平成30年5月13日(日)、長崎県東彼杵郡川棚町にある「特攻殉国の碑」前において「第52回特攻殉国の碑慰霊祭」が催行された。

2 所見

 特攻殉国の碑慰霊祭の前日、5月晴れの中、空路にて当該式典会場の最寄空港である長崎空港に向かう。羽田空港から約2時間。大村湾に浮かぶ箕島という島全体を開発し、世界初の海上空港として開港した当時(昭和50年)は、随分と話題となった。着陸が間近となり眼下には、主に海上自衛隊が使用する大村飛行場が見える。

 戦前から村空と呼ばれ親しまれている特攻機出撃の飛行場であり、長崎空港の前身でもある。実は、大村市は私の故郷である。小学生時代には、国産旅客機として一世を風靡したYS11が就航した記念に企画された長崎上空の遊覧飛行を体験したことを思い出す。 
  

 翌朝、殉国の碑慰霊祭の式典会場を目指す。宿泊した大村市街地から車で約1時間、生憎の雨模様であったが、右手に標高約1000mの多良岳を仰ぎ、左手に朝凪の大村湾を見ながらのドライブとなる。

 風光明媚である上に、扇状地のために風水害が少ないことや、湾内の波高の影響を考慮して、川棚町のこの地が、水上特攻の訓練適地に選定されたのではないかと推察する。

 

 今回、当地慰霊祭に参列する機会を得たのは、私自身が長崎県出身であるほかに、実父が水上特攻訓練者の一人であったのが関係しているのかもしれない。 

 厚労省から入手した軍歴によれば、実父は、昭和19年9月15日に第15甲種飛行豫科練習生として鹿児島航空隊に編入。その一か月半後に福岡航空隊、翌年3月には臨時第3特攻戦隊司令部、同年6月に佐世保鎮守府第14特別陸戦隊へ所轄替えとなっている。ちなみに海軍飛行兵長が父の最終階級だった。

 生前、父は軍隊時代について語ることはほとんどなかった。その中でも記憶にわずかに残るのは、「ボート(「震洋」と思われる)に爆弾を付けた水上特攻の訓練に明け暮れたなあ」と憂い顔で呟いた後、遠く見つめていた姿である。

  雨天のため、式典会場内にはテントを展張しての開催となったが、新谷郷民の方々が老いも若きも一丸となって、慰霊祭を厳かにして整斉と執り進めていかれる姿に感動すら覚えた。
 
 また、特攻殉国の碑保存会・新谷郷総代の廣川英雄氏が慰霊の辞の中で「御英霊の尊い犠牲と、御遺族の方々の深い悲しみを越えて、もたらされた今日の日本の平和と繁栄があることを、未来を担う次の世代にお伝えてしていく事が、今を生きる私たちの責務」との読み上げは、殉国の碑を伝承する上で郷民の方々の信念を表すとともに、英霊の鎮魂にふさわしいものであった。

 式典に参列していると、この地にて特攻の各種訓練に精励し、我が国の勝利と存続を信じて疑わなかった旧軍軍人の息遣いが感じられるのである。

 式典終了後、主催側のお一人である西村慎吾氏から益田善雄著の『還らざる特攻艇』を賜った。その中に昭和二十年七月時の「震洋」に関する所属及び部隊名の記載頁があり、「佐世保鎮守府 第三特攻戦隊」を発見。先述の軍歴に照らし合わせると、はやり実父は「震洋」の部隊等に所属していたのだと確信するに至った。

 この殉国の碑が取り持つ縁とでも言うべきか、巡り合わせ以上の縁深さを感じる。来年も様々な想いを胸に、川棚町を訪れ殉国の碑の前に立つ私がいるはずである。

ページの先頭へ