ホーム人材育成の糧後輩に語る(先人の講話)

後輩に語る(先人の講話)

後輩に語る(先人の講話)

ここでの先人は、森田忠信氏(故人 防大7期)になります。同氏が平成2年12月1日から平成4年4月1日まで、第39期及び40期の指揮幕僚課程(CSC)主任として学生と接する機会の折々に触れて、後輩に語られた話を以下の10話にとりまとめられたものです。
ちなみに、このプロジェクトのメンバーである福江広明はCSC39期、尾上定正は40期の学生で直接講話を拝聴しています。

第1話 勤務方針
第2話 本質
第3話 人生のチャンス
第4話 出処進退
第5話 状況判断
第6話 戦略と戦略的思考
第7話 戦術を学ぶ
第8話 統合と連合
第9話 日米共同と英語
第10話 ノーブレス・オブリジェ

*その後(2023年末)、福江がCSC時代に作成したファイル・ノートの中に、「第11話」「第12話」のメモ書き(森田課程主任が直接配布)を発見。これらに基づき、それぞれのコメントを掲載しました。

第11話 人事の要訣
第12話 世界を見る眼

第1話 勤務方針(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第1話に想う(記 福江広明)

 第1話の中で述べられている「戦機一瞬 常備不断」の方針は、CSCを卒業した以降、指揮官及び幕僚のいずれの職務に就いた際も、私自身のモットーとなるほど強いインパクトあるものであった。
 CSC39期の課程修了に伴い、全学生は森田当時課程主任から「戦機一瞬 常備不断」の8文字が記された色紙を賜った。私はこれをずっと自宅の勉強部屋に飾っていたために、随分とセピア色になってしまった。
 もちろん私も部下・隷下部隊での講話に大いに活用させていただいた。おかげで防衛力整備、作戦運用に従事する者の心構えの一つとして、少しずつ身に付いていったようである。


第1話 勤務方針


 私のモットー、旗印、まずは勤務に当たっての諸君に示す方針は、 「戦機一
瞬、常備不断」ということである。読んで字の如く、戦いのチャンスは、一瞬の間に来たりて、また去る。この勝利のチャンスを捉え、我がものにするためには、常に怠らず不断に備えていることが肝要である。
 ただそれだけのことで
はあるが、この8文字に私自身の人生を託している言葉でもある。
 茶道ではよく一期一会という。茶席に会して一服の茶を喫するこの出会いは、主にとっても、客にとっても人生只一度の出会いであり別れでもあることを念じて茶を立て、茶を飲する。この心得は、只今を無二の只今として、ひたすらに生きる心構えでもある。
 戦機は不断に連続する一瞬の継続の間にある。諸君は、今CSCという課程
に学んでいる。人生の時間の長いスパンでみれば、この一年は正に須臾の間であり戦機の一瞬である。不断の備えをもって学ぶべきものを学び自らの戦略・戦術を確立する機会としてほしいという願いを込めている。

 私は前任地の空救団飛行群司令当時、隷下10個救難隊2個ヘリコプター空

輸隊の隊長の着任に当たって、1つだけ要望したことがある。隊長の勤務方針
は何かということ、その方針を着任に当たって隊員に示せということである。
 隊員は、隊長の着任を心待ちしている。自分の任務、自衛隊での生活、更に家族の生活をも左右しかねない隊長である。どんな考えで、どんな指導をするつもりか、良い指揮官、頼り甲斐のある隊長であって欲しいとの願望を込めて、壇上の隊長の最初の言葉を待っている。その隊員に向かって、力強く心のこもった隊長自身の人柄のにじんだ勤務に対する心構えの一言は、隊員の心に染みるものである。
 それに反して、壇上の隊長から、 「当分、前任者のとおり、私の方針は追って示す。」という訓示をうけた隊員の失望は大きい。かかる隊長が、追って示した方針などというものを、その後聞かないことの方が多い。聞いたとしても、今更という気分と、その程度のことかと言われるのが落ちである。
 従って、隊長になる日、隊員の前で示すべき方針は、自ら備え温めておくべきであり、逆に、かかる旗印を持てた者が隊長になる資格があるとさえ言える。

 もう少し、この旗印にこだわりたい。 「風林火山」や「昆」の旗印は、戦国の
武将達のものである。部隊には、部隊マークがある。家にはそれぞれの家紋がある。古来、旗色を鮮明にするとは、敵味方を明らかにすることである。部下に、この旗の下で死ねという死ぬ拠り所となるのがこの旗である。
風林火山や昆は、それぞれの主将の人生観、戦略、戦術観をも含めた戦いの哲学の集約であり、彼自身の心の拠り所、部下をして帰一せしめる大義でもある。
 軍や部隊には、かかる大義が必要である。この大義を与えうるものが、真に部下をして死をも辞さぬ誇りを与え得るものだということを古来の戦史が教えており、今も変わらない真実である。
 そういう旗印であるから、鮮明で他と区別がつき、かつ簡潔で、その人柄と思想が見えることが望ましい。最近、私が鳥取地連部長の当時、中方総監であった竹田寛陸将の方針は、1.任務に誇りを持て。2.任務を自信を持って遂行できるだけの実力を練磨せよ。3.地域社会と共に歩め。というものであった。しみじみと、明瞭で内容のある指導方針だと思った。

第2話 本質(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第2話に想う(記 福江広明)

 CS1次試験の準備段階から、「問題の所在」を明らかにすることに四苦八苦し、課程修学中にあっても教官から『本質は何なんだ』と再三詰問された。空幕勤務時、戦略・事業計画の策定や政策検討等にあたっての説明では、上司から『一枚の絵にしてみろ』『一枚紙にまとめろ』『英語に置き換えたらどうなる』等、本質を捉えきれていないが故の指摘は数知れず。
 本質を把握しようと地道に経験を積み重ねてきたつもりだが、いまだに修得の実感はない。今回あらためて恩師の言葉に触れて、引き続き「何が問題かが問題だ」を常に念頭に置き、社会事象等を「より簡明」に表現できる力を培っていきたい。



第2話 本質

 「本質」という言葉ほど、諸君に身近な言葉はあるまい。CSCの受検勉強を始めるころから、問題の本質を把握して解答せよと指導を受け、模擬試験の答案には、朱書で本質をついていないと注意されたことがあろう。CSCに入校後は、事あるごとに、本質の追求が要求されている。これほどに重要なものにもかかわらず、本質の本質について、私自身CSCを卒業しても永らくそれを、明確に自覚したことはなかった。私の勉強不足、思慮不足もさることながら、その本質というものを具体的に解いていただいた記憶がないのも確かなことであった。
 11年程前、法律書の折り込み解説書を、忘れもしない西武線の中で読んでいるとき、所沢の近くで「本質は、自然物においてはその存在にあり、又、人造物においては、その目的に存する。」という一行に出会って、「これだ。」と心の中で叫んだのを思い出す。以来、この言葉を詮索しつづけて来た。現在までに行きついた所を諸君に伝えたい。
 第1のカテゴリーに属するものに、自然物がある。リンゴは、どこから見てもリンゴであり、その皮を剥いても、半分に切ってもリンゴである。百合の花は、聖書にもあるように、野の百合に人間は指一本の変化も与えることのできない神の遺物である。したがって、自然物はそのあるがままで本質そのものである。つまりは、神の創ったものは、その被造物自体が本質そのものなのである。しかし、ここにーつの難しい自然物がある。人である。人の存在は何かという問いの領域には、ここでは立ち入らない。それは古来、哲学・倫理・宗教の分野に属するテーマであり、私にとっても、諸君にとっても未だ未踏の世界が無限に拡がる。
 問題は、第2のカテゴリーの本質である。即ち人が造ったものの本質は、その目的に存するというテーゼである。
 形のあるものの証明は、明瞭である。自転車の本質は何かと問われれば、人が人力で走らせるために造った器械であり、たとえ車輪がーつでも、二つでも三つでも、又、2人乗り・3人乗りでも自転車は自転車である。
 しかし、人が造ったものでも、形がはっきりしないものとなるとだんだん本質が見えなくなる。例えば、自衛隊というものの本質をみよう。自衛隊の本質はその目的に存するというのが、私の提案である。自衛隊の目的は何かと問えば、諸君はすぐ自衛隊法の第3条自衛隊の任務を思い出すだろうし、それは防衛庁設置法第4条防衛庁の設置の目的をうけたもので、 「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とする。」ところに本質がある。これと同様に、組織は、その規約に定める組織体設置の目的にその本質が存するのである。この辺までは、頭で理解できるが、これが、ごく身近の事となるとさらに見えなくなる。例えば、今諸君が学ぶCSCの本質は何か、何のために君はCSに入校を希望するのか、その目的は何か。などとなると答えは暖昧になるだろう。CSC入校の諸君も必ずや一度はこの問いに答える必要がある。
 本質については、一応、輪郭が掴めたとしても、さらにやっかいな社会事象の本質をつかむという問題が残る。社会事象の本質の把握の課題が私にとっては、切迫したテーマであった。11年程前というのは、私がポーランドへ防衛駐在官として赴任する前のことだったのである。ポーランドで起こっている連帯運動というものをどうとらえるかという難題であった。
 これからのポーランド情勢、世界情勢の本質を如何にとらえるかは、防衛駐在官としての正念場の課題であった。本質はその目的に存するという人造物の場合と違い、社会事象の本質の把握の方法論について、ヒントが、前に述べたパンフレットの中につづいて書かれていた。即ち学問は仮設を立てそれを検討することであるというのである。学問を本質に置き換えることができるのではないかと考えた。本質は仮定し、それを検証し、さらに再仮定するという作業のうちに見えてくるものではないか。これは、正・反・合を繰り返すスパイラル状の弁証法的発展が、社会事象の本質をとらえる道程であり、より検証された仮定が、社会事象における本質であろうと考えた。この結論は、今も変わっていない。この方法論をもってポーランドに渡った。それ以後に起こった連帯運動、戒厳令の発令等の問題をこの手段により見て来た。
 私がとった方法論のうち、一番重要だと考えるのは、如何に仮定するかである。この仮定の要訣は「一言で言うと」何かである。本質は、真実という言葉で置き換えられる。真実は、単純明快なものである。複雑怪奇なるものは真実に遠いというのが私の結論である。英語的に表現すると、「The simpler, the better」とでも言えよう。あのThe比較級、the比較級の構文である。より簡明に定義してみることである。
 社会事象の本質の把握には、トレーニングが必要である。情勢の見方については、別の機会に譲るが、トレーニングの方法としては、例え話で置き換える方法と、人間の機能でシミュレーションをしてみる方法を勧めたい。
 最後に、本質の把握の前提となる問題の所在を明確にする作業がある。古来何が問題であるかが明らかになったとき、問題は問題ではなくなると言われる。
 諸君と同じ立場にあるパリのフランス陸軍大学の門には、 「何が問題かが問題だ。」と書かれていると聞いた。私もそれを確認する機会を逸したが、その意義は理解できる。諸君もこの門から入って本質の追求に当たってほしい。

第3話 人生のチャンス(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第3話に想う(記 福江広明)

 CS2次試験も身体検査も、なんとかクリアしてCSCに合格。元来さして勉強好きではなかったが、さすがにこの1年は修学に徹した。いわゆる自衛隊の高級3課程の履修経験がない私には、自衛隊生活で後に先にも丸一年勉学に勤しむことができたのは、CSの1年間だけだった。
 定年退官後も、この時のノート・資料集(月間学習日程、連絡表、新聞の切り抜き等)はさすがに捨てきれず手元に残している。いずれ思い出がぎっしり詰まったノートから後進育成に役立つエッセイを書いてみたい。
 さて、森田室長は、本話で『修練、精進、努力を続けるとき、きっと歴史の舞台のハイライトを浴びるような出番が、人生には二度チャンスとして訪れることになるだろう」との予言をされている。
 「チャンス」を「任務上の大仕事」と言い換えた上で、私の職歴に照らしてみると、まず我が国が主催した「サミット」に3回関与できたことだろう。
 空幕運用課総括として、「2000年九州・沖縄サミット」の諸会合に参加、当時の南混団内での指揮所開設にも関与した。その後「2008年北海道洞爺湖サミット」では、千歳基地司令として、さらに「2016年伊勢志摩サミット」では航空総隊司令官として、裏舞台ではあったが指揮・幕僚のハイライト期だった。
 もう一つあえて挙げるとすれば、2016年BMD統合任務部隊指揮官の拝命であろうか。任官して以降、ナイキ及びペトリオット・システムの運用・整備を学び、BMD体制構築に従事することができたおかげで、最終補職にてBMDという統合任務を臆することなく全うできたと自負している。


第3話 人生のチャンス

 継続は力なりとよく言われるし、諸官も自ら言い聞かせて今日まで歩んで来たのだと思う。CSCという難関を突破して、入校し勉学する機会を得られているのは、その明らかな証明といえる。
 幹部候補生学校入校から数えると、丁度10年位の年月が経ったことになる。人生の歩みは、のろのろと長い。子供のころは1日が長く、また1年が長かった。青年の諸君には、1日が長く、1年も長いが過ぎれば早いと感じはじめていよう。この傾向は年をとるほど進み、1日も1年もますます早く過ぎる。
 人それぞれ持って生まれた能力がある。しかしこの1. 0年、諸君はここに集まって、能力にそれほどの差はない。しかし今後、努力の差は顕著に表れる。ここでいう能力とは、知力・体力・人柄を総称したものである。日々の修練の差は、年単位で出てくると思う。それが10年まとまるとはっきり結果になって出る。
 さらに次の20年目、諸君の日々の積み重ねが歴然とすることを知って
おいてほしい。その時、自分を省りみて、他を恨まずに自らを納得させるべきである。「男子三日会わざれば割目して見るべし」という。諸君は、今正にこの道程にある男子である。厳しいトレーニングを続けるアスリートの場合、トレーニングを1日休めば自分に分り、2日休めば記録に出て、3日休むと他人にも分かると言われる。一日一日の弛まぬ精進を期待したい。
 この努力を続けるとき、諸君にはきっと歴史の舞台のハイライトを浴びるような出番が、人生には二度チャンスとして訪れることになるだろうということを予言しておく。その時、しっかりとチャンスを自分のものにして人生に悔いない準備をしておけというのが私の勧めだ。日々の修練によって、チャンスが見え、チャンスが掴め、そしてこのチャンスに立派に耐えうる自分が作れるものだ。
 私は、いつごろか荒い日に、心に定めた自戒律がある。それは、「苦しい道と易しい道との分岐点では、跡踏せずに苦しい道を選ぼう、何故ならば易しい道を選べば、道は安易であるが、後に後悔がきっと残る。」というものであった。今もこの気持ちは変わっていない。
 そして天上天下この世界宇宙に今ここに居る自分しか他にいないのだと観念し、今を生き切ることだ。それが自分と、自分の初心を一番大切に愛しむ生き方だと思って、私は生きてきた。ただ一度の人生、諸君も自分の自分らしい生き方で生き抜いて欲しい。

第4話 出処進退(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第4話に想う(記 福江広明)

 幸いにして、私は自衛官時代において「出処進退、極まれり」という事態・状況に置かれることはなかった。

 ただし、航空総隊司令官当時、弾道ミサイル破壊措置命令を受け、その任務に従事した間において、出処進退を問われるか、自らの懲戒処分に至る状況が生起することがあるやもしれぬという予感みたいなことはあった。

 我が国に向けて飛来するおそれがある弾道ミサイルを探知した以降、システムによる弾道計算が開始。同時に指揮所内の画面には弾着地点が表示される。迎撃を指示する立場にある指揮官にとって、その地点が領域内か外かの見極めが極めて重要となる。計算の精度は極めて高いが、領域の内外を示す表示は画面上、線でしかないからだ。  

 また、飛来中において弾着地点が領域外を表示していたとしても、弾道ミサイル自体の不具合により突如として異常飛翔状態に陥り、領域内に落下する可能性もある。この場合の対処こそ、瞬時にして適切な指揮官の判断・決心が不可欠となる。

 このため、破壊措置にかかる任務遂行の都度、不測の事態を想定しながら、秒単位で変化する表示画面を凝視し、指揮所内の幕僚からの報告及び隷下部隊の音声等に聞耳を立て、決して私の命令・指示に不適切さと時間的遅れがあってはならないと集中していた。

 その一方で、破壊措置命令が解除された直後などには、一つの誤りも許されない指揮の実行というプレッシャーから解放された反動もあってか、対処の結果如何とは言え、出処進退等の覚悟を持っておくべきと感じたこともあった。

第4話 出処進退

 
出処進退について話したい。出処進退とは、広辞苑的には、出でて官に仕える仕官と、退いて野に居る退官をいう。責任をとって進退伺いを出すと、辞職願を提出することを言うのは御承知のとおりである。そしてこの進退こそ、自ら決すべきものとされている。
 昭和46年春、私は奈良の幹部候補生学校の区隊長であった。1中1区隊長として、防大14期生を送り出し、防大15期生を迎えて隊歌演習と非常呼集訓練に明け暮れていた頃である。この春には、上田康弘空幕長が着任されて、幹候校に初度視察され、訓示された。その主題は、 「出処進退は、妻にも相談せずに自ら決めるべきものだ。」ということであった。
 そして例の7. 30の
全日空機雫石事故が起こった。その是非は別として、出処進退を明らかにするという一点において、きっと上田空幕長は、候補生を前にして、武人としての出処進退のあり方を説いた自分の訓示を思い起こされていたに違いない。
 上田空幕長は、私が小牧救難隊で2尉の頃、3空団司令兼小牧基地司令であった。基地の観世流謡曲部で、一緒に稽古をしていただいた。上田空幕長の出処進退は非常の場合の進退ではあるが、これは平素からの鍛練や心構えがないと出来ない事である。即ち日常、平素の勤務の間の出処進退について我々は如何にあるべきかを考えておくことが肝要であろう。
 謡曲には、シテ・ワキ・トモの役柄がある。シテは主役、ワキは脇役、トモは主役のお供をいう。そしてこの役柄によって台詞、抑揚、声音さらに品格等その役にふさわしい謡いが要求される。一人でこれを演ずる場合、今自分はシテか、ワキか、トモかを意識して、それに相応しい謡いをする必要がある。謡曲が能になると所作、仕舞が加わる。自分の出番、役割に応じた所作を演ずることが大切で、その役に徹することによって本物に近づく。謡曲の進退を例えにしたのは、よくそのあり方を示しているからである。
 その第1は、自分の出番と下番を間違えないことだ。お呼びでもない時にのこのこと舞台に上がると引っ込みがつかない。
 第2は台詞を過不足なく言う。即ち自分が今どうしてもこれだけは言っておかなければいけないということだけを、ズバリと言い切る。無駄なオシャベリをダラダラとやらないことが、大切である。言葉を省いて省いて、この時この言葉しか他にあてはめるべき台詞がないという台詞を言う。
 これこそが衆人に無視されない男の存在を際立たせる。そういう時代がかった男の美学は今の世には通じないという人達もいよう。それも一理、しかし私に言わせれば、それはピエロの役どころと言ってよい。
 指揮官、副指揮官、幕僚、部下の指揮官等、君達は役を振り当てられる。その役を見事にこなして行ってほしい。結論はここでも同じだが、今自分は出番か否か、如何なる台詞をいつ発言するかの状況判断を不断に行え、それが戦機一瞬というものだ。

第5話 状況判断(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第5話 状況判断

 今回は諸君の得意の状況判断について話そう。状況判断は、幹部候補生学校
以来、幹部としてのお家芸又は表芸として、部隊においても平常の勤務の間に上司、先輩に叩き込まれ、Socでも指揮幕僚要務で学び、CSCの受検勉強でも、山かけの中心にあって諸君の自家薬寵中のものであろう。
 あえてここに
私が、この話題を持ち出すのは、私の狭い経験からではある、まだまだこの状況判断の演練が不十分であると考えているからである。少し話は古くなるが、昭和38年防大を卒業し奈良の幹候校の候補生の頃、昭和39年2月初めてコロラドスプリングスの米空軍士官学校へ候補生5名が、交換学生として短期入校研修に赴いた。現在は防大生が行っているが、その最初のケースであった。
 今回はその体験の中で最も印象深いーつを話したい。それが、この状況判断である。着校後学生手帳を貰った。その表紙を開けるとその裏表紙には、次の文字がプリントしてあった。即ち日く。
Estimate of situation
1 m:ssion
2 Situation
3 Enemy' s capability
4 My own possible plan
5 Decision
 これだけである。私はこれが我々が言う状況判断の過程を示すものであるこ
とは即座に理解した。米国士官学校といえば、最も大切にしているのが、オーナーコードと呼ぶ、We will not lie, steal, or cheat nor tolerate among us anyone who does. (嘘をつかない、盗まない、ごまかさない、またそれを我々の中に許さない。)というのがあるが、それは心掛けとしての黄金律である。武人としての行動律は、この状況判断である。
 状況判断の過程をここまで集約して、頭に叩き込み、常にこの思考過程を大切にするのが軍人、それもオフィサーたるものの任務であると言う。候補生ながら私もこれだけは覚えておこうと思って覚えて帰った。その後今日まで自衛隊での勤務を通じて、この状況判断の過程を大切にして、平時にあって軍人の行動基準として来た。治に居て乱を忘れずとは、このことだと考えている。ただ自衛隊と米軍やポーランドで見聞した軍隊の心構えとの大きな違いは、「敵」の認識である。状況判断の第3番目の「敵の可能行動」の認識である。認識がないとは言えないまでもその深刻さにおいて、他国の軍隊とは大きな格差があることだけは、実感として言える。この敵を顕在化させないことが、我が国の防衛戦略の基本である。脅威を特定しない、敵を作らないという戦略思想は、秀れた戦略的思考であるが、戦いの現場をあずかる戦術判断には、常に敵をカウントしなければいけない。そして敵を常に意識する行動のみが自らを守る姿勢につながる。
 私の身辺のことで言おう。我が家には、家の中で犬と猫を飼っ
ている。犬を毎日散歩させる。他の犬から敵対行動を要求されているプードル犬は、今も行動の基準を他の犬の警戒において歩いている。家の中にいて外に出ないヒマラヤンの猫は、天性敏捷、獰猛であるにもかかわらず、成人した今もノロマでとても野良猫になっては食って行けない。
 我が空自の日常の訓練や演習、更には戦術・戦法において、我々が如何なる程度に敵を認識しているかが、治に居て乱を忘れずということの中味であると私は信じている。敵を作れというのではない、敵を常に認識せよというのである。ついでに付言する。このEnemy' s capabilityを現状の問題点として捉えると、いわゆる問題解決法になる。くどいようだが、軍人の思考には敵が常にある。そこが一般社会での問題解決法と根本的に異なるところである。


第5話に想う(記 福江広明)


 現役時代を振り返ると、「状況判断」と「決心」の連続だった。退官後は任務から私的用務に状況がシフトしたためか、継続と確定の各度合いが緩くなりはしたが、今でも間違いなく続いている。

 状況判断と決心という言葉を意識し出したのは、指揮幕僚課程(CSC)の受験準備に取り掛かった頃からだろう。CSC2次試験における問題は、これら2つの観点において力量を問われるものが多かった。試験官によっては、“泥船”、“救いの手”と称する受験者を混乱・困惑させる手法が取られ、より難題化する問いに閉口しかかったことが何度もあった。

 

当時、CSC受験に向けて活用していた指揮運用綱要の解説には、状況判断と決心、両者の関係について、記載されている箇所がある。

・「状況判断は、任務達成のための最良の方策を決定するための内面的な思考の過程であり、これに意志が加わったものが決心である」

・「状況判断という思考作用は、不断に変化する状況に即応しうるよう絶えず行わなければならず、意思決定である決心は、絶えず実施されている思考作用の流れの上に立って適時適切に実施されるべきものである」

 つまり、「状況判断」とは絶え間ない変化の中での内面的思考過程であり、「決心」が一連の思考過程上の意思決定なのだと。現役時代の様々な任務及び業務等を経験してきた今だからこそ腹落ちする。

 

 本話の中で、森田室長は状況の把握にあたって「適性」「敵の可能行動」に対する常なる認識を重要視されている。事実、現役時代の訓練演習においては、情報・作戦・作戦支援といった各種見積を実施する中で、一般状況、敵情、空域・地域の特性、彼我の可能行動を明らかにすることに最も注力していた。

 ウクライナ侵攻が解決の糸口なく継続し、台湾有事が差し迫る情勢下にある今日、我々は「敵」に対する認識をいっそう高め、その脅威の実力を掌握することが肝心である。多くの国が各種の装備やシステムを進化させ、それに伴う戦略・戦術・作戦運用の変革を図っていることから、判断・決心の対象となる状況が今後とも複雑多岐化することは承知の上である。

 併せて、我々は我の部隊及び隊員の状況に対して的確に認識することを忘れてはならない。これに基づく我の可能行動を明確化することが極めて重要となる。このためにも常なる状況判断と適時適切な決心は不可欠なのだ。

第6話 戦略と戦略的思考(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第6話 戦略と戦略的思考

 戦略と戦術は、この一年間諸君が学ぶテーマであるし、将来に亘って究明すべきテーマであるから、手短かに講話するような話題でないとも言える。しかし、逆に私自身が考えて来たことを、一言で言えと言われれば、それを一言で言 えなければならないことも、私の本質論で述べたところである。
 したがって今回は、戦略と戦術の内、戦略について私の考えを諸君にぶっつけて、君達自身の戦略を構築する肥やしにしてもらいたいと思う。
 先日の戦略応用研究発表において、ある発表者は次のように述べていた。脅威は、意図と能力から成る。この意図は不定不明であるので、我が戦略を策定するに当たっては、能力を主体に検討するという発言の下に、縷々述べていた。この考え方に即して、能力をもって何が出来るかを考えてそれに対応する我が方策を案ずればよいというものである。昨今、多くの立論がこの手法で語られている。果たしてそれでよいのか。
 戦略とは何か。私の結論は、戦略とは味方を増やし、敵を減らす謀りごとのことである。戦略とは、戦いの謀りごとである。戦いとは、相手を叩くことである。個人の場合から国のレベルまで、戦いは相手との叩き合いである。戦争の場合は、国と国の叩き合いである。これを謀るのである。謀るとは、敵味方の目方を比べることである。比べてどちらに分があるかを見ることである。分とは勝ち目を言い、味方に勝ち目があるようにすることを策することが、謀りごとを為すということの意義である。
 その方策とは何か。自国に分があるようにするには、二つの方策がある。
 第一は、味方の分を増すこと、即ち連合して当たること、第二は、敵の分を減ずること、即ち敵を分断して少なくすることである。これを案ずることが戦略であり、そういう考え方を採ることが戦略的な思考というのである。ここまでは、戦略論の第一段階である。ではどうすれば味方が増え、敵方が減ずるか。
 これを知ることが戦略の第2段階であるp私の考えは、戦いは一言で言えば、「利と理」の追求である。ひらたく言えば「何々を欲しい、何々がしたい」。以前本質論で述べた手法でいえば、戦争の本質は、その目的に存し、その目的とは、 「利と理」の追求である。
 利とは利益であり、それを得ることによって得る物質的益である。理とは、道理の理であって、戦いの大義と言われるものである。一般には、利と理が一致することが通常である。しかし大義と言われる理は、表向きであってその裏には、表裏一体としての利が存する。むしろ利のために理を合わせるということさえ希有ではない。しかし常に理は表面である。
 戦略を策し、味方を増やすためには、第一には、理で味方を説得し、その理の裏にある利を知らしめ我々に寄することによって、その利が得られることを承知させることが必要である。更には、利をもって敵方を味方にすることができる。その場合も同時に理を抱き合わせにすると更に効果的である。
戦略の話を具体的な事例を用いずに話したので、やや抽象論に過ぎたが、こ
れを、今回の湾岸戦争に当てはめてみてほしい。この私の戦略論の立場から、湾岸戦争を戦略的思考で論究した多くの論文のうち、日本にとっての湾岸戦争の理と利を、明解に説いたものに、中央公論平成3年4月号の堺屋太一論文がある。我が国の戦略研究のーつのモデルとして、諸君も是非参考にしてほしい。
 ここで、もう一度最初に述べた諸君の戦略応用研究の発表における脅威の研究のうち、意図の分析についての疑問に戻ろう。戦略とは戦いの謀りごとであり、その内容は、味方を増やし、敵を減ずる方策を立てることであると述べた。
 その方策の中心は、理と利をもって、味方につけ敵をつきくずすことである。それは、正に相手の意図を詮索することに他ならない。結論を言えば意図を詮索することが戦略なのである。逆に言えば、意図を抜きにした戦略論は、戦略論でなくなると言える。
 我々は、この意図の研究が現実的で生ぐさく、差し障りが多いが故に、複雑で、流動的で、かつ多様な見方ができて、主観的になり、客観性が疑問視されるが故に、避けて通り易い。しかし、避けては通れないのがこの戦略論の本質である。我々は、より客観的、普遍的なる我が国の活路を軍事専門家として提言しなければならない。それは我々の責務でもある。諸君宣しく戦略を学び、立案し、提言して、我が国を安泰ならしめよ。


第6話に想う(記 福江広明)


 戦略という言葉を強く意識したのは、指揮幕僚課程(CSC)の入校(平成2年度夏)時だった。

 今回のコメントの参考にしようと、久しぶりに入校当時のノート(ルーズリーフ用バインダー)を開いてみたところ、最初の頁に、幹部学校戦略教官室が作成した教育資料『「戦略」について』を綴じ込んでいた。その要所には、私がカラーマーキングした跡が残っている。同資料の概要は次のとおり。なお、全文は最下段に掲載。

 

 『「戦略」という言葉には、幾つかの意味がある。中でも幹部学校で学ぶべきは、「目標達成のための手段、方策」という意味だ。“国家戦略”“軍事戦略”“防衛戦略”等がこれに該当する。この意味においても二つの捉え方がある。一つは「当該目標を達成するために、現在保有する諸力をどのように使うべきか。」という問題解決型戦略。もう一つは「当該目標を達成するために、将来を見通して今からどのような手(方策、手段)を打つべきか。」という未来志向型戦略だ。身近な例では、前者は「防衛及び警備計画」(作戦計画)であり、後者は「防衛力整備計画」等がそれに該当する。CSCで学ぶべき戦略は、もちろん後者である。』

 

 CSCにおける戦略に関する教育は、入校から間もなく開始された。具体的には、防衛基礎Ⅱというカテゴリーにおいて、「クラウゼヴィッツの戦争論」を皮切りに戦争理論、諸国の軍事戦略の講義を経て、最終的には戦略応用研究をもって修学するよく練られたプログラムであった。

 あらためてノートを見返してわかったことがある。戦略について、なんとか理解しようとしているものの、消化しきれていない部分が多分にある筆記具合であった。

 

 しかし、CSC履修後、部隊等において実務を通じて戦略立案・作成の重みを体感し、少しずつではあったがCSC学生時の未消化部分を解消することで理論から実践力が身に付いていったように思われる。

 問題解決型戦略に該当する防衛及び警備計画、大規模演習計画等については、方面隊司令部の防衛班長、空幕の運用課幕僚としての勤務時代に作成に従事。また、未来志向型戦略に当たる防衛力整備計画や長期航空防衛見積り等の作成に関しては、空幕の防衛課研究班長時代に取り組む機会に巡り合えたおかげである。

 

 これら補職経験を、今回の森田室長の講話内容に照らしてみると、私は戦略を「戦いの謀りごと」として十分に認識した上で、その時々の戦略策定任務に携わっていたかというと少々自信がない。相手の各種情勢及び脅威の分析を重視していたはずだが、意図よりもやはり能力・戦力といった物理的なことに目が向き過ぎていたように思えてくる。

 今日、各種の戦略策定にかかわる現役諸官には、この点を十分留意されることを望みたい。

 

 CSC入校中に、瀬島龍三氏(陸士44期、戦後伊藤忠商事に入社し政財界で活躍)の講演内容についての資料を、知人から入手したことがあった。その中にも、やはり『戦略とは謀り事である』というフレーズが強烈な印象として残っている。前大戦において智略をもって立ち向かった軍人による最大の教訓と言えるのではないだろうか。

 謀略、策略と言い換えてしまうと異なったニュアンスになってしまうかもしれないが、「相手が予期しない手段・方策を周到に準備し、確実に相手の意図を打破する。これにより相手の能力・戦力を減ずるとともに、味方の増勢を図る」という意味での、したたかな戦略が今の時代にも必須である。

 そのためにも、昨今注目されているネットアセスメント(参考文献:「ネットアセスメントの再考:航空幕僚監部防衛部 1等空佐 坂田靖弘」)に関する取り組みと体制の早期確立は急務である。

  

(参考:「戦略」について)

 

 「戦略」の概念については多くの論があり、“戦略とはこういうものだ”と言い切れる定義付は、日本にはまだない。

 しかしながら、「戦略」については、その言葉の使われ方として幾つかの意味を持っていることは容易に理解できる。

 まず第1に、「死活的重要性を持つ」という意味、例えば“戦略物資”“戦略産業”“戦略的地域”などがこれにあたる。

 次は、「大局に決定的影響を与える」という意味、これに該当すると思われる使い方は“戦略空軍”“戦略兵器”“戦略爆撃”等である。

 第3は、「方針、指針」という意味での使われ方として、“経営戦略”“販売拡大戦略”などがあげられるであろう。この使われ方は軍事以外の分野が多い。

 第4番目は、「目標達成のための手段、方策」という意味である。“国家戦略”“軍事戦略”“防衛戦略”等の「戦略」がこれにあたる。われわれが本校で学び、考えようとしているのは正にこの意味での戦略である。しかしながら、この場合でも二つの異なった場面があることを認識しておかなければならない。

 つまり、「当該目標を達成するために、現在保有する諸力をどのように使うべきか。」という問題解決型戦略と「当該目標を達成するために、将来を見通して今からどのような手(方策、手段)を打つべきか。」という未来志向型戦略である。われわれの身近な例を見た場合、前者は「年度防衛及び警備計画」(作戦計画)を考える場合の戦略であり、後者は「防衛力整備計画」等を策定する際考えるべき戦略である。今回諸君に考えて貰う戦略は、もちろん後者である。 

第7話 戦術に学ぶ(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第7話 戦術を学ぶ

 いよいよ応用研究が始まる。CSCの教育は、この応用研究と図上演習を通
過して初めて、それらしくなると思っている。やっとこの頃になって、諸君が教室の廊下でSOCの学生と一緒に、コーヒーを飲んでいても、SOCの学生とは、雰囲気で見分けがつくようになる。
 今回は、応研を始めるに当たって、戦術を学ぶという観点から述べる。まず、戦術は、芸術的創造活動である。
 これを古人は、戦いには常道と常形はないと
いう言葉で表現している。画家が白紙に絵を描くように、思い切って自分自身の絵を創造してほしい。このためには、諸君の子供達が使ったオシャブリや寝るときに持たせたタオルや、ぬいぐるみの類の手拭いを捨てて、自立した精神を持つ必要がある。
 諸君にとってのオシャブリとは、指揮運用綱要、幕僚勤務、
航空作戦教範の類である。諸君の頭の中には十二分にそれらの知識が、詰め込まれ過ぎている。そして今も、手元にそれがないと不安で作業が手につかないという者もいるであろう。
 諸君は、今それを越えようとしているのである。英
語で言えば、Break Through(ブレイクスルー)という段階であることを心に刻んでほしい。君の頭で自分の考えを押しだして、俺はこう考えてこういう案を出すという自分の論を仲間のそれとぶっつけ合って、戦わせてほしい。自分が石で、相手が玉ならば君の石は砕け散るであろう。それもよい。
 それによって、君は更に玉に磨かれよう。自分がどの程度のものかもはっきりするだろう。又、自分の得手、不得手も出てくる。性格も出る。そして究極のところ戦いとは、 その人そのものだということが納得できよう。この平時、今後の自衛隊生活においても、cscの応研、図演ほどの、生の人間を観察する機会は少ないだろう。
 もう一度繰り返して、他の言葉でいえば、今君が手に持
っているもの掴んでいるものを手を広げて捨てないかぎり新しいものを手にすることはできない。先輩の作業の申し送りなどに頼っては、空自の明日は闇だよ。
 戦術を学ぶことの第2は、戦略は眼を高く広く大局を外さないことが大切であるが、逆に戦術を学ぶにあたっては、肌理をこまかく、襞を深くすることが必要である。肌理を何んと読むか分かるか?キメと読む。意味は、皮膚の表面のこまやかなあやをいう。あやとは、色合いや模様をいうが、転じて筋道または工夫や、手立てをもいう。襞はヒダであり、着物の細長い折り目である。また山のヒダと言えば、山と谷の起伏をいう。要すれば、全神経を集中して、女性の肌に触れて、その微妙な肌触りを探るという類の心配りを働かせよという意味である。
 無神経で、無頓着、鈍感の者には、戦術の道は厳しいと思え。山
を見てその山の験しさ、斜度、岩質、草木の植生等を読めないものには、山には入れないのと同類である。兵器の諸元の数字の意味するもの、部署する部隊の指揮官の性格と部下の心情等々、肌理を細かくすればするほど、見えてくるものがある。それが戦術眼だ。
 最後に、教育システムの活用についてお願いしておきたい。
私が、21期のcscの学生の頃は、勿論今日のコンピューターシステムはなく、作戦解析やORや、ストライクプランの検討は手作業でサイコロの勝負であった。図演もマニュアルオンリーであった。現在の教育システムは昭和52年当時第3教官室の教官であった小田2佐(現校長)らが運用要求を作成し導入されたのは、昭和59年で32期から使用が開始された。
 後方のシステムが追加されたのが平成元年で、37期、更に航空阻止ブログラムが現在導入中で、41期生からは航空阻止作戦もコンピューター化される。
 この教育システムは、主としてcscの教育のために設計、整備され、システ
ム班の要員によって維持管理されている。そしてこのシステムがフル稼働するのは、この応研、図演の期間だけである。それほどの金とマンパワーを投資しているのは、航空自衛隊が諸君に期待するものの具体的な表現である。しかし私が、このシステムに期待するのは、単にCSCの教育的見地からだけではない。
 諸君は、奇しくも、湾岸戦争と同時平行的にこのCSCの課程に学んでい
る。湾岸戦争を支えているものは、ハイテク兵器のみではない。C3Iシステムと戦争をAI化した成果でもある。私が、教育システムに期待するものは、対抗方式によるWAR GAMEを実施できるようにすることと、AI化してコマンドとスタッフ作業をコンピューター化することである。対抗方式は、以前私が我々の組織の弱点として敵を常に認識していないことだと述べた。
 全知
全能を上げて戦う対抗方式訓練をすべきであるという持論に基づくこのゲームには、陸海空と日米の戦力組成、更に湾岸戦争で得られた最新のAOBが組込まれるべきである。更にAT化の作業は総隊のバッジや作戦解析装置、更に民間企業が開発を進めているWAR GAMEのシステム等を総合化したい。そして本格的なものを造るための第一段階とし現状のシステムをAIl化し、プロトタイプとするのがよい。これを基礎にして、本格的な作戦のAT化が展開できるだろう。
 これらを通じて、既に戦争を知らない世代の指揮官、幕僚に戦いをシミュレーションして模擬体験させることは、平時がいつまで続こうと、治に居て乱を忘れないことの幹部学校の任務だと考える。
 諸君は、今後、空幕各セクション
で勤務することになるだろうが、将来幹部学校の教育システムの予算要求がなぎれたならば、他は削ってでも、これだけは通してほしい。そしてこの程度ではだめだ、もっと良いものを造れと叱吃激励してやってほしい。きっと、それが日本を救う時が来ることになると予言しよう。そして、その時幹部学校は、航空自衛隊の戦略戦術のメッカと真に言われるものになるであろう。


第7話に想う(記 福江広明)

 先人(ここでは森田室長)が示唆されるように、戦術は基本を理解した上での創造活動なのだと、現役時代を振り返れる今、確信できる。

 

 CSC入校中(1990年)、付与された応用研究の課題(“確か、空爆による基地滑走路被害の復旧だったかと”)について、グループ分けされた数名のクラスメートと一緒に解答を作成、定められた時間内に教官に提出。全てのグループの提出が終了した後、模範解答が提示された。

 しかし、どうにも納得がいかない。教官との間で質疑応答を繰り返す。先人の文中にあるように、まさに自らの考えを練り上げて、その自論をぶっつけ合って戦わせた。しばらく問答は続いたと思うが、未了のまま課業終了となる。

 決して、自らの案に執着して意固地になっていたわけでない。全力で取り組んだことを認めてほしかったのでもない。ただ、最良であろう模範解答の説明にとどまらず、学生案に対して各種見積りの精査以上に、実務性・実効性の観点での明確な指摘を求めたかったのだ。

 

 こうした釈然としない気持ちのまま、教室の隅に立っていたところ、授業の様子を傍らでみていた他の教官が近づいてこられ、私(達)に『お前たちの案が(“「が」は「も」であったかも”)正しいかな』と小声で伝え、続けて短く理由を言ってくれた。

 この時は、現場経験のきわめて少ない学生同士で導き出した案をいくらかでも評価してもらったことが正直うれしかった。と同時に、実戦においてはアプローチの方法も含めて正解は必ずしも一つではないということを自覚でき、わずかながらも自信になった。

 

 CSCを卒業して最初の部隊勤務地で、戦術は懸命の創造によって生み出すものだということを、今度は実践で思い知る事態に遭遇する。

 守秘義務のために事態の細部はもちろんのこと、背景すら言えないが、有事即応の事態を想定して約1週間の詰めきり作業を、私を含む10名ほどの幕僚が命ぜられ、対処のための戦術計画を策定することとなった。相手の意図を推し量る術がほとんどなかったため、脅威の能力だけに注目して、限られた情報と我の体制から各種見積りを行い、計画案を策定していった。

 結果的に、想定事態は生起せず事なきを得て、詰めきり作業による創造活動の成果物はいつしか破棄された。それでもその期間の活動は決して無駄ではなかった。無駄どころかその後の現役生活の大きな糧となったことは間違いない。

 戦術及び作戦運用を立案・実行していくためには、平素から隊員及び部隊の実力を把握すること、時々の諸情勢を正しく認識すること、それらを作戦の方針及び計画に正しく反映することがいかに大切であるかを学ぶことができた。また、幕僚であれば指揮官に自信をもって決裁を得ること、指揮官の立場にあれば、部下を信頼し、そして自らの判断を信じて決心するという行為の重さも少しわかった気がした。

 

 次の異動で、航空幕僚監部(当時は、桧町に所在)・防衛課防衛班に配置となった。初めての「幕勤務」である。そこでCSCの課題問答の際に、密かに学生案に賛同してくれた教官に再会。所属の課は別ではあったものの、廊下で会うたびに声を掛けていただき、残業中に慰労してもらうこともたびたびであった。

 ある時、その先輩にCSC当時のエピソードを話したところ、「そんなこともあったかな」とはぐらかされた。しかし、考えてみれば、CSC時代にしか面識がない先輩から声をかけていただいたということは、きっと学生指導の記憶があったはずである。それ以降、空幕で勤務するたびに何かにつけて、その先輩とは飲み交わす機会があったことが今は懐かしい。

 

第8話 統合と連合(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第8話 統合と連合

 統幕学校に3幕の指揮幕僚課程の学生が一同に会して、統合の事例研究を実施
した。防大以来久し振りの統合教育である。しかしこの10年余で、各カラーに染められてしまった姿を見い出したであろう。今後このカラーの違いを認識した上で、我が国の防衛に力を合わせなければならないのだ。
 昭和天皇の独白の中に大戦の敗因を四つ述べておられるが、この失敗の原因を我々は、真に体さなければならない。即ち第一、兵法の研究が不十分であったこと、即ち孫子の敵を知り己を知らば、百戦危うべからずという根本原理を体得してみなかったこと。第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。第三、陸海軍の不一致。第四、常識ある主脳者が存在しなかったこと。往年の山懸、大山、山本権兵衛と言う様な大人物に欠け、政戦両略の不十分な点が多く、かつ軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂下勉上の状態を招いたこと。以上の反省の中味を諸君は戦史の中で確認していることと思う。特に第三項目は、何の説明もなく、断定的に言い放って何の説明もされていない。余程の対立を目の前にして苦慮されたのであろう。
 現在は、苦い経験を活かして、陸海空は、理解し合って一致して進んでいるだろうか。私が空幕運用課時代、統幕が中心になって行った防衛研究における陸海空それぞれの主張の対立は、激しく常に平行線を辿った。最後は三者の主張の入った最大公約数でしか治まらないものであった。その原因は、防衛対処の基本的な要領を定めようとすると必ず、その後ろにある防衛力整備のニーズに影響し、予算につながるので妥協できないのである。
 私は、先の大戦中陸海軍が一致できなかった点は、第一が作戦正面の決定、第二が資源配分であったと考えている。旧陸海軍では、日露戦争以後終戦まで、作戦正面が別々であった。陸軍は、大陸を指向しなければ、陸軍の出番が無く、海軍は太平洋を向かなければ、その勢力は拡張できなかった。作戦正面が異なることによって、双方は競合することなく軍備整備に専念できた。あとは、只予算と資源の争奪だけであった。そして資源配分は激烈であったようだ。当然、政府主脳人事の競合にも及んだ。しかし戦いはこの間隙を見事に衝した。 戦後の統幕機能において、これらの反省は充分に活かされているとは言えない。
さらに、内局という文民統制機構によって、軍政・軍令の仕組みが分かりにくくなっている。諸君の統合の教育の発表においても、陸海空・統幕の指揮統制、調整系統を如何にするかが主要な研究テーマとなる由縁である。
 戦後、日米共同防衛体制における共同、広くこれを連合と呼べば、連合の系統が、更に難しい横線となっている。戦前にはなかったテーマである。今後諸君は、青い色のユニフォームを着て、緑と黒のユニフォーム更に米軍の四色の軍隊と力を合わせるべき方策を模索することになる。この際今一度、作戦正面の決定、資源の配分、連合作戦をスムーズにやれる統合、連合組織、機能を先人の失敗を克服して築いていかなければならないのだ。



第8話に想う(記 福江広明)


 昨年末に閣議決定された安保3文書において、高く評価された項目の一つに「常設統合司令部(PJHQ :Permanent Joint Headquarters)の創設」がある。

 当該文書の一つである「国家防衛戦略」の文中には、自衛隊の統合体制整備の考え方として、『統合運用の実効性を強化するため、既存組織の見直しにより、陸海空自衛隊の一元的な指揮を行い得る常設の統合司令部を創設する。また統合運用に資する装備体系の検討を進める。』と記載されている。 
 また、「防衛力整備計画」においては、平素から有事まであらゆる段階においてシームレスに領域横断作戦の実現、併せて各自衛隊の体制の在り方検討等といった統合体制構築の目的及び検討の方向性も明示された。

 ロシアのウクライナ侵攻、中国の戦略的外交等といった現下の国際情勢にかんがみれば、我が国防衛諸作戦の効果的な遂行力を高める上で、この常設統合司令部の一刻も早い機能発揮が待たれるところだ。

 

 森田室長の講話の中に、「統幕(当時は、統合幕僚事務局)が中心となって行った防衛研究における陸海空それぞれの主張の対立は、激しく常に平行線を辿った。最後は三者の主張の入った最大公約数でしか治まらないものであった」との記述がある。同様な状況は、先人が空幕勤務された昭和の時代に限らず平成に移った以降も生起し続けた。

 私自身も、空幕防衛課研究班長の職(2001~2003年)において同じ経験がある。中でも、3幕による長期的な防衛見積りの調整会議での議論は辛く思い出深い。我が国周辺の特定国の将来軍事動向というこの一点に関して、陸海空それぞれの防衛力整備上の必要性から見解の相違が生じ、合意形成は期限のギリギリまで難航したのだった。

 その一方で、時期をほぼ同じくして、当時の上司であった空幕防衛課長の米国出張に随行して米軍のある統合司令部を訪問する機会に恵まれ、統合スピリッツの必要性及び統合作戦の重要性を期せずして知ることになった。その時の米軍統合指揮官による以下の発言要旨が、今でも強く印象に残っている。

①米軍は、1990年代、予算及び人的制約から、統合路線を追求せざるを得なかった。

②4軍種(当時)が制服の色にこだわることなく、共通(統合)の任務を遂行するのに、10年の歳月を要した。

③自衛隊における統合が早期に成就することを大いに期待している。

との内容だった。統合幕僚監部が設立したのは、それから数年後の2006年である。

 

 森田室長も、先述の米軍統合司令官と同様、制服の色の違いを超えて力を合わせることを強調されている。旧軍時代から抱えてきた各種課題を克服して統合体制の実現に向けて尽力せよと、将来を担うCSC学生に求められていたことが、ようやく常設の統合司令部創設という仕上げの段階に到達しようとしている。

 統合幕僚監部の設立から17年が経過。確かに、先人が当時危惧していた各自衛隊による予算獲得から生じる統合体制構築上の問題は依然としてあるだろう。加えて、統合の指揮統制にかかわる権限・責任の範囲についても、認識の統一は半世紀以上にわたる難題であることに変わりはない。
 しかし、我が国安全保障体制を抑止・対処の両面から確固たるものにするために、常設統合司令部の創設を検討・協議からすみやかに実行・実現のフェーズへと一気に突き進みことを切望する。

第9話 日米共同と英語(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第9話 日米共同と英語

 まず、ポーランドにおける私の体験から話そう。1981年当時、まだワルシャワ条約機構は健在であった。ソ連軍は、その盟主として、クリコフ元帥がワルシャワ条約軍を東ねていた。ポーランド軍は、ソ連軍に民族的に近い兄弟国として、有事の際は、その有力なる一軍を期待されて連合作戦のための指揮所演習や部隊演習を繰り返していた。演習名はソューズ(友好) というニックネームを付けていた。そういうポーランド海軍の司令部を我々在ワルシャワ武官団は訪問した。これに、この時は在ポーランド・ソ連軍将官が参加したのだ。
 恒例どおり、司令部においてポーランド海軍のブリーフィングが行われた。先ずポーランド語で話す。適当な区切りで、次いでロシア語に大尉が訳す。私が聞いても、訳がたどたどしい。更に英語に別の中尉が通訳する。これはスラスラと流暢である。ワルシャワ条約軍の共通語はロシヤ語である。ソ連圏では、学校の第一外語は露語で中高・大学はそれも義務制である。したがって、中学からはロシヤ語になじんでいる筈であるが、この通訳は下手である。
 私も少し
気になり始めた。ブリーフィングが少し進んだ所で、中央のポーランド海軍司令官が、側の者に厳しい表情で命じている。一人が席を立った。しばらくして、少佐が来た。これがロシヤ語の通訳の2番手である。ソ連軍将官の前で下手なロシヤ語を話されたのでは、司令官の面目が丸つぶれになり、更にポーランド人のソ連に対する忠誠またワルシャワ条約軍兄弟国の武官団、さらに中国やキューバ・ベトナムなど、社会主義同盟国に対するポーランドの姿勢を疑われる。
 かかる政治的配慮から、司令官は、ロシヤ語のできる奴を探して連れて来いと命じたのであろう。そしてブリーフィングが再開した。しかしである。このポーランド海軍少佐もまた、通訳がままならない。適当な訳語が思い出せずに立ちどまる。司令官がロンヤ語を教える。それでやっと先へ進むという状態。ついにポーランド海軍司令官の堪忍袋の緒が切れた。ロシヤ語通訳の少佐に、「もうよい、帰れ。」と怒鳴った。あとは俺が通訳すると言って、流暢なロシヤ語で通訳を始めた。我々参観者は、この風景を極めて印象深く記憶した。そして、ポーランド軍の心情、ワルシャワ条約軍の内情を的確に示す事例として、私も公信で報告した。たかがロシヤ語通訳の一事ではあるが、ソ連軍とポーランド軍の共同、連合関係のすべてを物語る一事であることも確かであった。その後10年で、この同盟関係は消滅した。
 話を日米関係に戻そう。CSCの学生は、日米共同防衛の見地から英語能力の素養を空英検3級で足切りをしている。年々英語能力は、スピーチコンテストで見る限り上達している。また、キーンエッジなどサイドバイサイドの演習においても、お互いに慣れて来た。
 しかし、この英語能力について、一つの傾向として、英語を使う人と使わない人が、はっきりと分かれてしまう傾向にあり、英語を毛嫌いする人も身の回りに多くいる事も事実である。更に英語の良く出来るVIPも、公私に亘って米軍人と話をするのに副官的通訳を連れて行く傾向にあり、自らは日本語で話し、よく出来る奴に英語で言わせて、その補足を自分で話すという場面に合ったことがある。これらの傾向は、日本が米軍と対等のパートナーとして、また外交儀礼上も下手な英語で誤解を生ずるよりも、正確な英語で意思疎通をすべきだとの配慮であることも首肯できる。しかしである、このとき英語は言葉のバリヤーであるばかりでなく、ナショナリズムのもうーつの心のバリヤーを作りはじめていることにも気ずかねばならない。
 言葉のバリヤーを破り、心のバリヤーに穴を開けてこそ、真の戦友になり得るのであろう。先のポーランド軍の話で、諸君は充分気がついていることとは思うが、共同における言葉の問題は、一つの重要な関係を示すバロメーターであるということである。日米の場合、米空軍軍人にパリティーを求めて、貿易摩擦のように、日本語を話せと言うのか。日米関係、特に日本にとって米国は、かけがえのないパートナーである。日米共同のために壁があるとすれば、それは心の壁である、心の壁を開ける鍵が言葉である。たかが英語と言う勿れ。されど英語に、日米が日本の安泰が掛かっていると思えよ。
 もうーつ、日米共同で話しておきたい。パートナー又は友人であることには常に証しが求められることを承知しておこう。私もポーランドで米国の同盟国であることの証しを求められて、身体を張った経験がある。これは旧約のアブラハムの神に対する信仰、服従の証しとしての犠牲の故事を承知しておく必要がある。自らを生賛にする覚悟が最終的には米国に対して必要であることを覚えておいてほしい。とてもそれは我々のプライドが許さないという民族主義のナショナリズムが支配するとき、即ち証しを拒否するとき日米関係は終罵を迎えるであろう。

第9話に想う(記 福江広明)

 昨年11月、10日間にわたり令和4年度日米共同統合演習「キーン・ソード23」が実施された。統合幕僚監部の報道発表によると、その目的は、「グレーゾーン事態~武力攻撃事態等における自衛隊の運用要領及び日米共同対処要領を演練し、自衛隊の即応性及び日米の相互運用性の向上を図る」であった。演習参加規模も、自衛隊は人員約2万6千名、艦艇約20隻、航空機約250機、米軍が人員約1万名、艦艇約10隻、航空機約120機と、草創期に比して各段の充実度である、さらには豪軍、加軍及び英軍の艦艇・航空機も小規模ながらも参加している。それだけ国際情勢、とりわけインド太平洋地域における安全保障情勢が不安定であり、同地域への関心が高まっていると言えるのだろう。

 

 この報道発表にも一部記載されていたが、日米共同演習が始まったのは、昭和60年度指揮所演習から(1986年2月24日~同月28日)である。同演習には自衛隊側からは約250名(内、空自約30名))が参加し、有事に際しての日米共同に関する自衛隊と米軍間の調整にかかわる幕僚活動を演練している。

 その翌年度には、日米共同実動演習が統合幕僚会議の計画によって初めて実施された。演習区域は、北海道大演習場(陸上作戦関連)、太平洋側海域(空海作戦)であり、自衛隊側からは人員約6,000名、航空機約50機が参加。想定は明らかではないが、当時の情勢から判断すると、対ソ連のための日米部隊間の基礎的共同及び3自衛隊間の協同連携要領の演練であったはずである。

 

 私自身の日米共同演習への初参加は、平成6年度日米共同指揮所演習「ブルー・フラッグ」(1994年6月22日~6月29日)であった。空自と米空軍がそれぞれの指揮系統に従って、日本防衛のために共同して航空作戦を実施する場合の指揮幕僚活動を演練した。実施場所は米国フロリダ州ハルバート・フィールド空軍基地。空自からは約40名が現地に派遣され、私は特技職の関係から高射幕僚(当時3佐)の配置となった。
 保全が徹底された指揮所演習専用の大型施設内に機能別の部署が間仕切りされた形の中で、対ソ連の想定シナリオに沿って各幕僚が端末操作を行いながら、日米間での最善の計画立案・調整・実行を図る、最先端の演習形式だった。
 個人的にも、指揮幕僚活動の実践的経験により共同対処能力の向上を大いに実感できた。と同時に、当時はまだまだ珍しかったコンピュータを活用した指揮所演習の実施要領及び作戦幕僚の訓練要領等を習得する重要性を痛感したことをよく覚えている。

 空自の「ブルー・フラッグ演習」への初参加は、平成4年度(1992年7月8日~7月15日)である。これら2度にわたる成果から、主催した航空総隊は、日米両空軍種による共同訓練効果がこれほど効率的に得られる演習はないとの認識を持ったと思われる。また航空幕僚監部内にも、同指揮所演習のための現地派遣の継続、同演習システム借上げによる日本開催、さらには同様なシステムの空自内整備の構想案もあったように聞いていた。しかし、防衛予算の制約から同演習参加は中断、新たな形態には長い間取り組めなかった。

 

 その後、私は補職先の部隊において様々な日米共同訓練・演習に参加、あるいは間接的に関与する機会を得ることになる。

 そのうちのいくつかを、このホームページにも記載している。以下に、検索順と共に列挙したので、一読いただければ幸いである。

①「勤務の思い出」→「千歳基地その1(第2航空団司令時代)」→「訓練移転に伴う米海軍機(F-18)との共同訓練終了!:2月29日(金)」

②「勤務の思い出」→「府中基地(航空支援集団司令官時代)」→「グアムにおける訓練を視察(コープ・ノース・グアム関連):平成27年2月19日、20日、24日」


③「勤務の思い出」→「府中基地(航空支援集団司令官時代)」→「アラスカ視察の準備状況を視察(レッド・フラッグ・アラスカ関連):平成27年8月11日、17日、25日、9月3日」


④「勤務の思い出」→「横田基地(航空総隊司令官時代)」→「グアムにおける訓練を視察(コープ・ノース・グアム関連):平成28年3月2日、9日」

 

 平成28年度日米共同指揮所演習「キーン・エッジ」は、私が実員として参加した現役最後の日米共同演習となった。航空総隊司令官として、米空軍のカウンター指揮官である米太平洋空軍司令官(当時、ロビンソン大将)との間で、想定する脅威への対応等に関する様々な情報共有、それに伴う方針確認等を行ったのは記憶に新しい。特に、グレーゾーン事態におけるFDO(Flexible Deterrent Options):危機発生時に部隊の展開等を通じ、脅威相手側に当方の意図と決意を伝え、抑止を図るもの)に関して、ロビンソン大将から教授してもらったことが印象に残っている。まさにこの演習は、指揮官としての集大成の場となった。おかげで当該演習終了直後から定年退職までのほぼ1年の間、弾道ミサイル等破壊措置という実践にも、自信をもって臨むことができた。

 最後に、先人が話題にされている「英語への意識」について。私自身、英会話は堪能ではない。苦手意識が常に働く。ただし、航空作戦や航空防衛力事業の観点では、相手方の意見を聞いた上で、自らの意見を主張できるレベルにはあると思っている。だからこそ、表敬、会議、懇親といった場の設定が異なっても、事前に意見交換のポイントを整理し、英語表現等の準備は怠らなかった。

 今後は、翻訳・通訳等の機械的機能が加速度的に発達するであろうが、「戦機一瞬」の判断・決心と「常備不断」の信念を、共同相手にも直に伝え、強い信頼を得るためには、英語力の自活はこれからも欠かせない。

第10話 ノーブレス・オブリジェ(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

第10話 ノーブレス・オブリジェ

 Noblesse Obligeとは、身分のあるものには、勇気・仁慈・高潔なる義務を伴うという西洋の古言である。高貴なるものの始めと言えよう。
 諸君は、自らの意思をもって、人の上に立ち、組織を動かす立場で仕事をしようと志を立てて、この道を選択し、CsCの学生となった。諸君を、人はエリートと呼ぶだろう。エリートは、選ばれたものをいう。更に、キャリアとも看なされる。キャリアとは、生え抜きの本職のものをいう。
 外交官のうち外交官試験をパスしたものを、Carrier Diplomatと呼んでいる。プロのうちのプロである。ついでに言うと、プロフェッショナルとは、ノンプロに対して職業として、それで金を得ているものの事を言うが真の意味は、それだけではない。
 プロがプロたる所以は、第一はその職に
使命観をもっていること。第二はその職に完全主義を貫くことである。この一つの条件を備えてこそのプロである。諸君は、エリートであり、かつキャリアである。それにもまして軍人の中のプロフェッショナルである。
 自らの使命に徹し、妥協を許さない厳しい完全主義者として軍事の道を進んでもらいたい。政治や経済やはたまた行政は、その道のプロにまかせればよい。委せられないのは、我々の本職である軍事である。辛い事だけれども、任務第一、組織優先の道を諸君は選んだのだ。
 上に立たんとする諸君に五則を言い置こう。
 第一は、私心を去ること。天に則っとり、私心を去ること。
 第二は、責任をとること。取れない責任をとれというのではない。取れる責任、取らなければならない責任を取れというのである。
 第三は、孤独に耐え、独りを慎め。言いたいこと、やりたいことの10をI
にする。孤独なる指揮官の辛さに耐えよ。
 第四は言謙虚になれ。実るほど頭を垂れる稲穂かなのとおりである。
 第五は、任務と部下の為には死ぬ覚悟。
いずれも言うは易く行うは難しい。されどこの道を行け。平成のノーブレス達よ。


第10話に想う(記 福江広明)

 先人(森田第3教官室長・指揮幕僚課程主任)による「後輩に語る10話」は、第1話の冒頭で記述したとおり、第39期及び40期CSCの学生に対する講話を、定年退官後にとりまとめられたものである。

 第39期学生に対する実際の講話については、「12話」まで続いた。その都度、先人はレジメと各項目の要点を手書きした航空自衛隊専用の半罫紙(B5判)を聴講者に配布された。

 以下は、席上配布された第10話の一枚紙をタイプしたもの。

 

『(19)91.1.29 0830I 課程主任

 第10話 指揮官修業

 

1.ノーブレス・オブリジェ(noblesse oblige)=身分には義務が伴う(勇 気、仁慈、高潔)

  Noblesse の選択…私欲を捨てて→高い地位を得る

 

2.指揮官としての修業

(1)自制する:言いたいこと、したいことを10に1つにする

        指揮官は孤独

(2)責任をとる:「私がやります」「私に責任があります」→処分を受ける→後顧の憂いを無くす

(3)死ぬ覚悟:部下と任務の為ならいつでも生命をくれてやる

(4)謙虚:人爵と天爵

      「實る程、頭を垂れる稲穂かな」 階級章を人格階級ととり違えるな。』

 

 定年後の冊子と実際の講話の内容を比較するとタイトルこそ違うが、ほぼ同じであることがわかってもらえるだろう。

 ただ、一つだけ異なる点がある。手書きの1枚紙の一番下には、以下の記事が縮小コピー(5㎝×7㎝)してとして張り付けられている。先人がノーブレス・オブリジェの意義を理解する上での補足資料として張り付けられたと思う。

 

『「選択」1991年1月号」

 編集後記

 

 拝金主義がはびこった“狂乱の時代”は終わって、90年代は正常化へのプロセスを辿ろうとしている。あと数年でバブル現象の後遺症を徹底的に治癒しなければならないが、そこで問われるのはトップの姿勢である。指導者の志と心構えが重要となってくる。

 このさい、「ノーブレス・オブリージェ」という言葉をもう一度深くかみしめておく必要があろう。上に立つ者はそれ相応の倫理や社会的責務があるということだが、こうした究極の歯止めが失われたら、わが日本は一体どうなるのか。上に立つ者が腐敗・堕落したら、その国家は救いようがないのである。したがって「平成の時代」のキー・ワードは、この言葉に尽きる。ノーブレス・オブリージェ!(飯塚)』

 

 先人からこの講話を聴講する2週間前に、私は長男を医療過誤もあって亡くし失意のどん底にあった。

 葬儀を終えて1週間ほど経った後、肉親の命さえ救えぬわが身が、部下隊員を安んじて過酷な任務に服させる指揮官など務まるものかと何度も自問しながら、心ここにあらずのまま幹部学校に登校した。

 結果として、医療体制へのわだかまりを払拭し、無力感を責任感に、自虐心を安全保障の志に転化できたのは、防大同期生の精神的支えとともに、先人の講話を聴講しノーブレス・オブリージェというフランス発祥の古言に出会い、その意義を強く意識できたことが大きかった。

 先人の第10話を読み返し、この記事を書いている今でも、定年まで自衛隊組織に奉職し、使命感を持って様々な補職を全うできたのは、先人をはじめ当時学生の立場にあった私を心身両面で支援していただいた方々のおかげであると心から感謝している。

 なお、当時の私の心情については、このホームページに掲載している「安全意識の根底(平成21年3月)を参照(検索順は、「現役時代の主張」→「飛行と安全」→「1.安全意識の根底…」)されたい。

第11話 人事の要訣(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

11話の構成は、

1 空自精強性の原点

2 ソ連・東欧(社会主義国)の衰亡の原因

3 人事の制度

4 人の管理

5 人を見る眼を養う

です。各項目の課程主任によるメモ書きについては、右の画像にあるとおりです。(画像はクリックすると拡大することができます)

 

 中でも、当時私(福江)が強く関心を持ったのが、「4 人の管理」のようで(なにせ、三十年以上も前の事ですので…)、課程主任配布のメモの余白部に鉛筆で加筆していました。

 まず、主任による記載内容です。「良い人事」とは、“しかるべき人が、しかるべき時に、しかるべきポジションにある”とした上で、“減点方式ではなく、加点方針”“(責任をとらせることを重んじるが)リターンマッチもあるべき”“指揮官を目指させる”との評価の重視事項が示されています。

 これらに関して、私は「能力、業績、意欲」とか書き足しています。きっとその当時、これら3つの言葉が適性な人事評価を行うにあたって重要な観点なのだと推察したのか、主任が補足説明されたのだ(多分、こちらだです)と思います。

 また、主任は、“CS卒業者の処遇””航空学生の処遇”と続けています。これらに対して、自筆には「ノーブレス・オブリージェと人事処遇とは、結びつかない(のか?)」とあります。この時、課程主任による第10話の講義内容が相当頭に残っていたのでしょうか。と同時に、処遇に反映されない「ノーブレス・オブリージェ」とは何なのかと疑問に思ったのかもしれません。

 
 当時は、このように課程主任の講義を十分に消化できていない状態でした。ただし、

その十数年後、航空幕僚監部の補任課長職に就き、部下の監督指導のほか、現業として空自1佐職全員の人事評価を行うことになった時に、これらの言葉が胸に響いたことを思い出します。

 

 最後の項目である「5 人を見る眼を養う」については、“人間を知る、(これ自体が重要で)組織生存がかかっている”と、主任はメモ書きされています。この句が真に何を意味するのかも、当時はピンと来ていなかったはずです。

 しかし、防衛監察本部勤務時代(20093月~20107月)に、初代・防衛監察官の櫻井正史氏(前職・名古屋高等検察庁検事長)のもと、現役の検事と共に1年半の間、防衛省の監察業務を通じて、かなり『人を見る眼』を肥すことができたとの実感があります。この経験が、その後の任務遂行、隊務運営に大いに活かすことができたことは言うまでもありません。

 

第12話 世界を見る眼(防大7期 森田忠信(当時、幹校教育部第3教官室長))

12話(1991年1月31日 0830)の構成は、

1 見る眼を養う(三つの眼)

2 方法論(修練)

3 知ることは愛することだ

4 世の中は必ず変化する(動く)

です。各項目の課程主任によるメモ書きについては、右の画像にあるとおりです。(画像はクリックすると拡大することができます)

今回は、第12話の課程主任の教えのうち、「1 見る眼を養う(三つの眼)」について、私が現役時代に実践の場を通じて、どのように体感したかを最も印象に残る事案を基にしながら、振り返ることにしてみます。


①物事を長い目で見る眼(目先にとらわれない)

 この「眼」を持てたのは、このホームページで再三記述してきましたが、何といっても長期的な航空防衛戦略(正式な名称ではありません)の策定に従事したことです。空幕防衛課研究班(既に改組)が幹部学校と密接に連携しながら、空自のあらゆる機能・能力を長期的な観点で拡充・進展させる方向性を示唆していく、この業務は貴重な体験でした。

 シナリオ・プランニング手法を駆使し、策定時からおおむね15年先を見据えて、空自組織の基本理念、ビジョン、各種体制構築のための具体的施策を導き出すのに多くの時間と労力を費やしました。OBからの提言も聴取し反映したほどです。

 おかげで、その後の指揮官職では、眼前の脅威や不具合に対処するばかりではなく、長期的に着実に体制強化を図る姿勢が身についていったように思います。

 策定から15年が経過した年には、私はすでに空自を定年退職していましたが、策定当時に描いた将来の国内外情勢から空自が求めるべき方向性等が、果たして「的」を得ていたのかを個人的な記憶を辿りながら、照らし合わせてみたことがあります。長期的な航空防衛力運用・整備の戦略指針として、まさにふさわしいものであったと自負しています。

②多面的、かつ全般的に見る眼(一面だけを見ない)

 現役時代、作戦運用に主任務としていた私にとって、2000年の九州・沖縄サミット、2008年北海道・洞爺湖サミット、そして2016年伊勢・志摩サミット、これら3回のサミット開催において支援活動にかかわれたことは、国の安全保障を防衛のみならず外交・経済・内政等の観点で知る上で、大変ありがたかったです。

 九州・沖縄サミットは空幕運用課1班総括時に、北海道・洞爺湖サミットは2空団司令就任時、そして伊勢・志摩サミットは総隊司令官として、テロをはじめとする脅威の排除のみならず、他省庁との連携、要人輸送、儀典等、多岐にわたる安全保障分野を経験することができました。

 実務担当者(空幕2佐)から最大級の国家行事であるサミットの開催運営に携われたおかげで、現場感と実務経験の蓄積を持って、国が有する各種機能の連携の様を横断的に見ることができたのは得難いものでした。

 加えて、この3回のサミットを通じて、個人的には自衛隊の統合化の変遷も垣間見ることができました。現場での統合は思いほか、積極的であったことを思い出します。やはり必要に迫られると物事は動かざるを得ないだとの実感を持った次第です。


③本質を見る眼

 現役時代には、勤務場所の上司や先輩から「その本質はなんだ!」とよく問われました。特に、航空幕僚監部時代では、事業説明や合議等で関係課班長、部長、幕僚長には幾度となく詰問されたことを思い出します。そうした日々の幕僚業務を懸命にこなしているうちに、事業や業務の利不利、重要点、そして空自の防衛力整備及び隊務運営のみならず国家安全保障等にかかる「本質」の部分を、区別して説明しなければいけないのだと理解するようになったと思います。

 当時を思い返してみると、「本質」は、きっと後輩幕僚を鍛えるための「とっておきワード」だったのかもしれません。ただし、私にはこのワードがかなり堪えたようで、私が上司の立場にあって幕僚を指導する際には、自分自身が信じるところの本質を幕僚がとられていれば、褒めた上で問うことなく決心・決裁していたようです。今になって考えると、決して好ましい指導ではなかったと悔いています。やはり、その時、その文書を前にして幕僚との間で問答し、本質を確信・把握させるべきだったと。
 ここでの事例として、基地防空隊の再編事業があるですが、いずれ機会がある時に紹介したいと思います。

 

 以上、それぞれの「眼」を養う上で、私が補職先で巡り合った事例等を紹介しました。状況は異なるものの、若き自衛官の皆さんも、こうした難儀な事案に遭遇することになるでしょう。すでに直面している方もいらっしゃることでしょう。
 その時こそ、決して怯むことなく臆することなく、事の成就に前向きに取り組んでいただきたいと思います。昨今、防衛政策・防衛力整備はスピード感が肝心だとの声を多く拝聴します。米空軍においても「Agile」の用語が頻繁に目につきます。

 私自身、こうした迅速性、機敏性ある判断・決心は現代にあって極めて重要な要素だと理解します。ただし、単なる拙速とならないためには、課程主任の教えにあるとおり、少なくとも三つの眼を養える者によって為されるべきだと考えるのですが、皆さんはどのように考えますか?

ページの先頭へ