この記事は、航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」陽春号(第123号)に寄稿したものを許可を得て転載しています。
1.「慰霊の念は、安全意識を高め指揮統御を錬磨する基」
航空自衛隊員にとって馴染みある月刊機関誌がある。発行元は航空幕僚監部で、昭和三十一年七月に創刊された『飛行と安全』である。
私が幹部候補生学校に入校したのは昭和五十六年春。当時、既に当該誌は飛行・地上の安全から衛生・心理に至る幅広い職務遂行上の手引書として活用されていた。現在は航空安全管理隊が編集を担当し、最新号は令和三年三月に第七七四号として発行されている。
その『飛行と安全』に現役時代に三 度寄稿させていただいたことがあり、いずれも巻頭言である。初回の表題は「安全意識の根底」(『飛行と安全』第六三〇号七―一一頁、二〇〇九年三月)とし、次回以降はその続編「続・安全意識の根底」(『飛行と安全』第六八一号七―一一頁、二〇一三年六月)、続々 編「続々・安全意識の根底」(『飛行と安全』第七一五号七―一〇頁、二〇一 六年四月)とシリーズ化した。
この中で、「安全とは、生命という尊厳の確保であり、死生と密接に関わる極めて重要な課題。その解決に当たっては、自らの安全意識の根底に確固たる死生観が定着していることこそが肝心」、「隊員の安全意識を組織理念化した上で、安全文化を育む着実な歩みの先に、航空自衛隊の永続と発展が見えてくる」などと主張した。
このように安全について、死生観に基づく指揮を強く意識した背景に、息子たちとの死別、同期生の殉職、そして英霊に対する慰霊参拝があった。
分屯基地司令および基地司令の職は、いずれも北海道で務めた。基地等近傍の自治体、護国神社等の慰霊行事に参列する職務上の機会は決して少なくなかった。その後の単身赴任時には、ウェブ情報等を基に休養日を利用して慰霊碑等を探訪したこともある。
現役時代における英霊に対する慰霊・追悼の思い出の中で最も印象深いのは、平成二十七年度レッドフラッグアラスカ演習に航空支援集団司令官として参加した時である。演習開始に先立ち、隷下訓練隊と共にエレメンドルフ・リチャードソン統合基地内の国立墓地を訪れた。その一画にあるアッツ島日本人戦没者墓地を参拝。併せて演習訓練の安全と無事の帰国を祈願したことが忘れられない。
2.実父の軍歴がきっかけで「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」に入会
平成二十九年四月に会社通いを始めて数か月が経った頃、航空自衛隊勤務時の元上司から電話が入った。内容は、前大戦の特攻隊戦没者に対する慰霊顕彰と特攻隊の史実等を伝承する事業を通じて、「日本の平和と発展に寄与してみないか」との特攻隊戦没者慰霊顕彰会(以下「顕彰会」という)への入会に関するお誘いであった。その際、元上司は私の父が特攻に関わったとの話を他者から耳にしたと言われていた。
実父の軍歴に関する情報元は、この『翼』に寄稿した随想文「父の軍歴に想う」(『翼』第三十七巻第九十九号三二―三三頁、二〇一三年三月)によるものだと思う。
軍歴の写しは、厚生労働省社会・援護局業務課宛てに所定の書類を提出することで入手できた。その旧海軍の人事記録には、実父が特攻任務に関わっていたことを想起させる部隊歴が明記されている。その一部抜粋を先の随想の中で、「昭和十九年九月十五日に第十五期甲種飛行豫科練習生として鹿児島航空隊に編入。その一か月半後に福岡航空隊、翌年三月に臨時第三特攻戦隊司令部、同年六月に佐世保鎮守府第十四特別陸戦隊へ所轄替え」と記載したわけである。
顕彰会については、自衛官時代には存在すら知らなかった。同会主催の会合に初めて出席した際に、従前から自衛隊専門紙「朝雲」や、「防衛ホーム」などに入会案内を広告していると聞き、全く気付きがなかったことに随分と反省した次第である。
3.顕彰会の沿革と主な事業活動
当会は、特別攻撃隊で散華された英霊を慰霊し、その史実を後世に伝えることを目的として設立されている。その沿革としては、昭和二十七年に旧陸海軍人が発起人となり、特攻平和観音像を造立。その開眼供養をはじめとして、昭和五十七年からは「特攻隊慰霊顕彰会」として全国に展開。
平成五年に「財団法人・特攻隊戦没者平和祈念協会」の認可を経て、平成二十三年に公益財団法人に認定される。その時に会名を「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」に変更し今日に至っている。
現在は、東京都千代田区飯田橋に事務局を置き、会員数(令和二年十月末現在)は一,四七四名である。
戦後七十六年が経過し、旧軍関係者および遺族の高齢化に伴い、会勢は減勢の傾向にある。こうした中、当会の運営には会長および理事長をはじめとする元自衛官が少なからず携わっている。
事業の概要としては、①特攻隊戦没者の慰霊祭実施および他関連慰霊祭への参加等、②会報「特攻」の発行による特攻隊戦没者の伝承および広報等、③特攻隊戦没者等に関する資料および情報の収集、調査等、④全国護国神社等への「あゝ特攻勇士之像」の建立、奉納等である。
4.慰霊・追悼の現場が抱える課題と、克服する上での三つの観点
遺族等の高齢化と相まって、少子化による就労人口の減少が加速化する近年、戦没者の慰霊顕彰を体系的に継承することが困難になりつつある。
各地の現場では、戦没者慰霊に関わる諸行事の催行および慰霊顕彰施設の維持は、思いのほか深刻である。今後は急速に衰退し将来消滅するおそれさえ生じてきている。したがって、大戦未経験者である私達世代は戦没者慰霊顕彰の先行き不安について警鐘を鳴らし続けることが重要である。十代、二十代の若き世代が慰霊顕彰に関心を持ち、具体的な行動を起こすことを大いに期待する。
戦没者慰霊の世代継承を図る上で着目すべき三つの観点があると考える。それぞれの意義に加え、自らが参列した慰霊祭・追悼式の具体例をもって現状の一端を紹介したい。
・顕彰性
我が国が過去関与した戦争に関する史実について、郷土における催事、説明会等を通じ、地元の児童が学ぶための環境整備を推進する自治体は少なくない。当時の状況を体感させるため、戦跡および関係施設を顕彰の場として提供し続けることで、若き世代に慰霊祭等への積極的な参加を促すためである。国際常識に基づく歴史観が育まれる可能性も高まるだろう。
平成三十一年四月十六日、鹿児島県出水市平和町特攻碑公園内にて催された「第六十回出水市特攻碑慰霊祭」に参列。同祭は、当地から航空機による特攻にて散華された英霊を慰霊するため、毎年慰霊碑の建立を記念して同一日に開催されている。
慰霊祭の中で、市長が地域の発展を担う青年、学生、児童等に今日の郷土がいかに安全・安定の中で存続しているかを教えることの重要性を参列者に説かれる。続けて、基地跡の掩体壕および資料館の整備等に予算を確保して、これらを保存していくことを述べた慰霊の言葉が記憶に残る。
戦後時代が進む中、特攻戦没者が我が国の存亡を懸けて挑んだ必死の使命を、多くの方に知らしめるべきとの気概を強く実感させられた慰霊祭であった。
・公共性
慰霊祭等を従前どおりの規模・内容で継承していく上で、主催者側・参列者側双方にとって人の確保が大きな課題である。
特に若い世代の参加意欲を高める必要がある。このため、魅力ある各種イベントを盛り込むことに主催側は苦心しているのが現状である。ただし、公共性を追求するとはいえ、戦没者慰霊の本来意義が決して損なわれてはならない。
平成三十年十一月十一日、山口県周南市大津島に建立されている回天碑前において執り行われた「回天烈士ならびに回天搭載戦没潜水艦追悼式」に参列。同式典は、旧海軍の特攻兵器・回天の搭乗員のみならず回天を搭載して出撃した潜水艦乗員を含む英霊を奉るものである。同式典の次第の一つに、事前に市内で実施される平和を命題にしたスピーチコンテストにおいて、最優秀賞に選ばれた中学生によるスピーチがある。また、式典日以外にもピースカップ回天メモリアルヨットレース、回天搭乗員等の氏名を刻ん
だ銘石への墨入れ等、実に多彩なイベントが催される。これらの行事は、戦没者慰霊が新しい形に移行していく中での明るい展望であると確信した一日であった。
・地域性
慰霊祭に当たっては、地元の伝統文化をはじめとする地域特性を催事の中に融合することにより、慰霊顕彰に対する地域住民のさらなる理解を深めることが重要である。若き世代の郷土愛の醸成を図る上でも、こうした式典等における工夫が不可欠である。
また、この行為は地域衰退の歯止めの一助になるはずである。令和元年五月十一日、福岡市の中心部にある福岡縣護国神社内の参集殿において「第七回福岡県特攻勇士慰霊顕彰祭」に参列。同祭は、当顕彰会が各地の護国神社に特攻勇士之像を奉納する事業において平成二十四年に当該 神社に建立した以降、開催されている。藩・縣といった帰属組織の平和や安 定のために自らの命を賭して戦った英霊を奉る行事などに、今日も数多くの地元・福岡の関係団体が参画し、組織立って運営している。福岡縣護国神社が担う役割が、地域住民の意識に定着しているからであろう。裏付けとなる図書もある。これには、福岡藩が戊辰戦争における戦死を功績として評価した時から始まったと記されている。まさに明治時代から受け継がれている福岡の地域性によるものだと得心した慰
霊行事であった。
5.知られざる史実の探求は慰霊顕彰の一つの形
今年度から、私は当顕彰会において理事という立場で特攻に係る調査研究にも携わることになった。
これまでの顕彰会の調査研究グループ(現メンバーは七名)は、『特別攻撃隊全史』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会、二〇〇八年八月)(特攻に係る記述内容として権威ある資料)に記録されていない事象をグループ内の活動による発掘を中心に実施してきた。しかし、これに係る作業は専従要員を有しておらず、協力を得られる関連団体の数も極めて限定されていることから、成果を挙げることが一層難しくなってきている。したがって、今後の主な活動については、次の三点を試みようと検討中である。
一、『特別攻撃隊全史』の存在を広く知ってもらうために、ダイジェスト版を製作する。
二、従前どおり『特別攻撃隊全史』の追補を継続する。この際、収集した内容によっては別冊を編纂する。
三、若い世代の慰霊顕彰に関する関心を高めることを目的に、慰霊祭、追悼式、慰霊碑・戦跡等の最新情報を特集し発信する。
なお、こうした当該グループ員の自助努力だけでは、活動に費やす時間および経費の面から自ずと獲得できる成果には限界がある。そこで、本誌を愛読いただいている皆さまに、特攻隊に係る当時の報道記事、特攻隊員の遺訓、関連戦跡・碑、碑文等に関する情報を、特攻隊慰霊顕彰会事務局に提供していただけると幸甚である。
私自身、現役時代に春日基地(福岡県所在)で勤務した折、実父が戦時中勤務した部隊等の痕跡を糸島半島方面において実地に探し回った経験がある。専門のガイドブックなどがない中、県内図書館の関連蔵書を手掛かりに、あくまでも私的関心事として行ったものである。前大戦末期に急造された旧軍使用の滑走路であった広大な場所は宅地造成されていた。その区画の中にある小さな公園の片隅に建てられた記念の碑をようやく発見することができた。戦時中にあってこの地で国防に従事された有志の方々により設置されたものと記憶している。
現代にあってなお公にされず、あるいは知られざる戦いの歴史はまだまだあるはずである。皆さまがお住まいの近隣にも、戦跡や関連の碑等があるかもしれない。慰霊顕彰の志の下、ぜひ改めて周辺地域を探索されてはいかがだろうか。その際、新たな気付きがあれば、当顕彰会に一報(事務局:〇三( 五二一三) 四五九四、メール(jimukyoku@tokkotai.or.jp)していただけることを心待ちにしている。