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連合幹部会機関誌「翼」

幹部学校長の抱負『スマートパワーの源泉を目指して』(平成25年11月:尾上定正)

 この記事は、航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」No.101(平成25年11月鷹狩号)から転載したものです。

はじめに

 8月22日付をもって第44代目の航空自衛隊幹部学校長を拝命しました。
 本誌読者の多くが目黒基地の幹部普通課程等を履修された、もしくはこれからされると思います。私は、目黒基地での入校も勤務も経験がなく、このたび念願かなって、初めての目黒勤務となりました。
 私が指揮幕僚課程を履修したのは、幹部学校がまだ市ケ谷基地に所在する時期であり、その後は米国への留学のため、高級課程等への入校は無かったからです。そのような経歴もあり、幹部学校で後輩幹部の教育や航空戦略の研究に自分の知見を活用したいと考えていました。
 おりしも、幹部学校は来年、創設60周年、目黒移転後20周年の節目を迎えます。そのような時期に学校長に就任できたのも運命的なものを感じます。
 本稿では、幹部学校について紹介しつつ、学校長としての抱負を述べたい
と思います。

学校長室の扁額「制空」


 学校長室には写真の「制空」という立派な額【本額は、元内閣総理大臣 海軍大将 鈴木貫太郎氏が終戦直前の昭和20年8月4日、中央航空研究所(内閣の管理下、三鷹に所在)を視察された際、当時研究所長をされていた元海軍中将 花島孝ー氏の所望に応じ、進んで揮竃されたものである。なお、本額、その後花島氏が所蔵されたが、昭和38年2月本校の航空兵器課程の講師として来校された際、本校に寄贈されたものである】が掛けてあり、上記の説明がついています。学校棟2階のエレベーターホールには本額のレプリカが展示してあるので、ご覧になった人も多いと思います。
 戦局を決定的に左右したミッドウェー作戦に言及するまでもなく、「空を制するものが戦を制する」という強い思いを、私はこの鈴木海軍大将の筆跡から感じます。
 航空自衛隊の使命を突き詰めると、「制空」 の二文字になるのではないでしょうか。幹部学校に相応しい宝として、日々、使命の原点を見る思いでい
ます。
 
学校綱領

 「制空」 の横にはかなり慎ましやかに、学校綱領が掲げられています。この綱領は、幹部学校の使命を踏まえて、学校職員及び学生が共通して目指すべき教育・研究の理念及び理念達成のための指針を明らかにする目的で、平成12年8月に決定されました。
 その解
説には、航空自衛隊の中・上級の指揮官・幕僚として必要な知識・技能を習得させるための教育訓練及び大部隊の運用等に関する調査研究を行うという幹部学校の使命(自衛隊法施行令第35条)を「航空戦略・戦術の教育・研究を極める」に集約し、「航空自衛隊の明日を拓く」で、学校の諸活動における叡智結集の方向性と将来に向けての決意を示した、とあります。 
 この理
念を達成するための行動指針が、「明智、正義、勇気」です。防衛大学校出身幹部には、学生綱領の「廉恥、真勇、礼節」を想起させますが、簡潔な一文に幹部学校の使命が凝縮されていて、とても航空自衛隊らしいと私は思います。
 「制空」という航空自衛隊の使命、「航空戦略・戦術の教育‘研究を極める」という幹部学校の使命は、極めて簡潔明瞭です。有事即応を旨とする航空自衛隊は、シンプルを美徳とします。デカルトの”A clear and distinct idea is true”の精神、あるいは、有名なDNA二重らせん構造の解明というノーベル賞論文がたった1ページである事実、また、「E=mC2」や「eiπ+1=0」に表現される真理などに共通する価値を、私はこの結晶化された使命に感じます。装飾を削ぎ落として本質を追究する精神と言い換えてもよいかもしれません。
 私は、幹部学校に継承されるこの良き精神を基礎に、「航空自衛隊の明日を拓く」ための教育と研究を追求していきたいと考えています。

学校長勤務の土台

 私は、1996年から2年間、ハーバード大学ケネディ大学院に留学させてもらいました。当時、「文明の衝突」という論文で世界的な論争を巻き起こしたサミュエル・ハンチントン教授、「決定の本質」というキューバ危機を分析した名著の著者グラハム・アリソン教授、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 のエズラ・ボーゲル教授などの講義やセミナーを受講した記憶があります。
 その時のディーン(学院長)が
安全保障の専門家であり、ソフトパワー/スマートパワーの提唱者、ジョセフ・ナイ教授です。この留学時の水準の高い知的訓練によって、私の思考回路はかなり幅が広がり、論理的になったのではないかと思います。
 私は、更に2001年から1年間、ワシントンDcの米国防大学NWCで学ばせてもらいました。アメリカの国家安全保障・軍事戦略を教育する最高学府の講義やセミナーは、非常に現実的かつ実務的でした。
 特に、9・11同
時多発テロが発生した後は、国防大学全体がシンクタンク化し、米国安全保障戦略の新たなパラダイム(枠組み)を、教官も学生も真剣に議論していました。この経験は、学術的な安全保障の理論を現実の政策や戦略に転換するための実務的な能力を高めてくれたと思います。
 その後、航空幕僚監部防衛班長、人事計画課長、統合幕僚監部報道官、防衛計画部長等の幕僚職、第8航空団基地業務群司令、第2航空団司令の指揮官職等を経験し、ある程度「知識を能力に転化」 できたのではないかと思います。このような土台の上に、学校長という重責に臨んだところです。

学校長着任の辞:
スマートパワーの源泉

 着任にあたり、私は以下のような訓
示をしました(抜粋)。
 
 空自の中核となる指揮官・幕僚を
育成し、かつ空自の任務遂行に必要な最適の部隊運用方策を案出し発信することが、学校長以下全職員に付与された責務である。
 この責務を果
たすため、私は、諸官一人一人に、それぞれの持ち場で、スマートパワーの源泉となって頂きたい。スマートパワーとは、部隊を戦略的に運用し、最も効果的に国益を確保するノウハウであり、我が国を取り巻く内外の現情勢を踏まえると、既存の枠組みにとらわれない柔軟な発想で、複雑かつ複合的な状況にいかに適切に対応できるか、即ち、どの程度のスマートパワーであるかが決定的に重要である。
(中略)私は、諸官ととも
に大いに議論し、学生の教育と調査研究を通じ、幹部学校をスマートパワーの源泉と成し、航空自衛隊の精強化に貢献したいと考えている。

 我が国の安全保障環境は厳しく、自衛隊に求められる役割は拡大、多様化しています。尖閣諸島や北朝鮮の問題は、平時と危機の境界を暖昧にし、いわゆるグレーゾーンにおける政府全体の適切な対応が重要になっています。
 また、技術の進歩は、無人機やサイバーなど今までに経験のない状況での対応を待ったなしで求めています。このような傾向は今後も継続し、一層深刻の度を増すと思います。
 このような将
来に備えるには、ナイ教授のいう「スマートパワー」 の強化が必要であると私は思います。
 ナイ教授は、米国が冷戦後の複雑な国際関係においても大国であり続けるためには軍事力(ハードパワー)のみならず、理念や価値観・文化などのソフトパワーが重要であり、これらを適切に組み合わせたスマートパワーを行使する必要があると主張しました。
 日
本が直面する様々な課題を克服し、将来にわたって平和と繁栄を確保するためには、我が国もスマートパワーの強化が必要です。日本のソフトパワーは、先進民主主義諸国と共有する基本的な価値観に加え、東日本大震災で世界から称賛された国民性や魅力的な伝統と文化など、米国に勝るとも劣らないと思います。
 ハードパワーたる自衛隊は、
厳しい予算や定員の制約のため伸び悩み続けていますが、一流の装備と練度を備えており、今後の適切な防衛力整備によって、精強な存在としてその役割を果たすことは可能だと思います。
 自衛隊のソフトパワー、例えば隊員の高いモラル(士気)や規律正しさ、部隊の即応態勢や統合運用などの無形の戦力も誇りにできるレベルです。我が国は、ハードパワーの行使に関しては、「専守防衛」や「集団的自衛権の不行使」等の政策によって、 一定の制限の範囲で行使するという選択をしています。
 その補完として日米安全保障条約を締結していますが、「同盟国は助けてはくれるが、運命を共にしてはくれない」というド・ゴール将軍の警句も忘れてはなりません。日本としてどのような形のスマートパワーを目指すのか、今問われていると思います。

 安倍総理の「スマートパワー」
戦略?

 本年9月の自衛隊高級幹部会同にお
いて安倍総理は、「現実を直視した、我が国の安全保障政策の立て直しを進め」、「国家安全保障会議を創設し」、「国家安全保障戦略を策定し」、「防衛計画の大綱も見直し」、「自衛隊の能力向上に取り組む」と訓示されました。
 10月
には、日米安全保障協議委員会(2プラス2)が開催され、「米国は日本政府のこのような取り組みを歓迎し」、「日米防衛協力の指針(ガイドライン)を来年末までに見直す」という共同声明を出しています。地球儀外交と称される積極的な外国訪問等と併せると、まさに日本のスマートパワーの戦略的行使と強化が進められていると私は思います。
 航空自衛隊も、益々拡大・多様化する役割を適切に果たすため、統合運用を基本とする将来の戦い方や危機の拡大抑止の方策を研究し、体制を整え、教育訓練に精励し、任務を完遂できる部隊を育成しなければなりません。幹部学校はこのような方向に沿った研究と教育を実現する、すなわち、航空自衛隊のスマートパワーの源泉となるべしというのが私の抱負です。

幹部学校の現状と課題

 幹部学校は、24年度実績で年間517
名の学生を教育し、これまでに、延べ2万1千名を超える卒業生を送り出してきました。教育課程も時代とともに変遷し、現在は、幹部高級課程(AWC)、幹部特別課程(AOC)、指揮幕僚課程(CSC)、幹部普通課程(SOC)及び上級事務官等講習(CAC)の5コースを設定しています。
 歴代学校長をはじめとする諸先輩方の努力で、教育内容も様々な改善が行われています。CS学生の国際感覚と英語力を磨くための多国間セミナーも、第13回目を実施し、大きな成果を挙げました。
 部隊の中核となる幹部自衛官の教育は、「明智、正義、勇気」を柱とする全人格の陶冶と将来の航空自衛隊の任務完遂に必要な様々な能力の修得を目指さなければなりません。そのためには、「不易流行」 の理念を参考に、変えてはならない 「不易」と変えなければならない 「流行」を見極め、改善や改革を続けることが必要です。例えば、我々航空自衛官のバイブル的教範である「指揮運用綱要」は、昭和46年に制定以来一度も改正されていません。
 その理由は、時代を超えた普遍性
を持つ内容、即ち「不易」 の部分が大半を占める優れた教範であるからですが、一方、記述の前提を含め、大きく変化した環境や技術など「流行」を反映できていないことも事実です。学校長としては、学校綱領を自ら体現する覚悟で、学校職員とともに、時代の要請に適応した教育体制の構築を目指していきます。
 幹部学校の使命のもうーつの柱である研究については、これまで「航空自衛隊のドクトリンに関する研究」などの成果を挙げてきました。航空自衛隊は、幹部学校の研究機能の質を高め、部隊運用により密着した研究成果を発信することを目標に、26年度、幹部学校研究部を航空研究センター(仮称)に新編する計画です。私は、先頭に立ってこの事業を推進したいと思います。

おわりに

 創設60周年を迎える幹部学校の使
命や課題について紹介しつつ、学校長としての抱負を述べてきました。拙文を参考に、これから入校される幹部は修学の志を立て、既に卒業された方は修学時の初心・所信を思い出して頂ければ幸いです。
 また、教育や研究はど
こで勤務していても、どのような立場の役職であっても、幹部自衛官として果たすべき役割だと思います。基地での幹部教育や自学研鎗の成果の「鵬友」への投稿など、自らのスマートパワーを高める努力を、全ての幹部に期待します。

苦笑の宝箱(平成28年3月:福江広明)

 この記事は、航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」No.108(平成28年3月東風号)から転載したものです。


 今年5月下旬、伊勢志摩サミットが三重県で開催予定である。サミットは、主要国首脳等が世界経済や地域情勢等、国際社会が直面する課題について討議等を行う会議の場とされている。


 日本では過去5回開催。このうち平成12年に九州・沖縄が、平成20年には北海道洞爺湖が主催地となり、それらの開催支援に職務上、関わった経験がある。


 九州・沖縄サミットの時は、空幕運用課(現在は運用支援課に改編)の運用1班総括として勤務。開催直前に異動になったものの、1年余りの準備段階において東京及び沖縄における関係省庁間の各種調整会議へ参加し、関係部署への情報共有を担当。加えて、期間中に那覇基地で3自衛隊が運用する航空機の展開調整、同基地の環境整備等について内局関係部署と連携しながら支援活動に従事したことが思い出される。


 その8年後の北海道洞爺湖サミットの際には、千歳基地司令の職に就任した直後から参加国の政府専用機等の集結場所になった千歳空港及び千歳基地において同基地の諸力をもって支援の準備と実施に当たった。特に警察、陸自部隊と密接に連携した基地警備を通じての貢献は印象深いものがある。


 さて、ここで「宝箱」の出番。それは、先述の洞爺湖サミットが無事に終了して数日後。在日米空軍武官がわざわざ私個人宛に届けてくれたものであった。

 
 そのうちの一つは、千歳空港に駐機した米国大統領専用機であるエアフォース・ワンの機体前で、タラップから降りてきたばかりのブッシュ大統領(当時)と出迎え行事の一環として私が握手している写真。もう一つは、彼曰く米国大統領夫妻から日本側出迎え関係者へのお礼の品とのこと。アメリカ合衆国の国璽が記された金色の包装紙を纏った一辺が14センチの四角い箱物だった。


 当該武官から手渡された際、中身の説明はなかったと思う。私自身、むしろ箱よりも、来日米側関係者だけが絶好のタイミングで撮影してくれた大統領との貴重な写真に感激して、包みをその場で開けるなど考えもしなかった。ただ一見してチョコ・菓子の類いだと思えたのは確かで、すぐさま冷蔵庫に保管した記憶がある。

 
 それから半月ほど経った頃。妻からサミット支援の労いを受け、箱の存在に気づき、開けてみることに。

 
 いかにも高級チョコが入っていそうな感じ。金色の表紙を丁寧にはずす。そうすると、私宛のカードと一緒に、ティファニー・カンパニーと社名が記載された水色の箱が現れた。さらに箱蓋を取る。中には布製の袋に丁寧に包まれ、大統領の紋章と共にブッシュ大統領夫妻のサインが刻印された直径10センチの銀色に輝くボックスが出現。はてさて中身はと期待を膨らませながら金属蓋を取ってみると、ただ青い布が敷かれているだけで中は空っぽ。妻と二人して大笑い。いわゆるアクセサリーケースであることがわかった瞬間だった。

 
 当然、この苦笑いの金属製の容器は、我が家の宝物として、妻が包み紙からすべてを今でも大切に保管してくれている。

 
 それにしても、『開けぬティファニーのチョコ算用』、お粗末様。

 
 このことがきっかけで、楽しみを後にとっておくという習慣を考え直した。これ以来、先入観、期待感、思い込みは回避して、しっかり確認する行為が身についたような気がする。もちろん実務でも着意は同じ。


 昨年末、光栄にも航空総隊司令官職を拝命。伊勢志摩サミットでは、これまで以上に警戒監視や各種態勢の整備等で大きな関わりを持つことになるはずである。「二度あることは三度ある」とは言い得て妙なり。巡り合わせとは言え、同じ国家行事に三度も関与できることを誇りにしながら、作戦遂行組織としての威信をかけて部下隊員と共に重責を果たす所存でいる。私が現役自衛官の立場で関わる最後のサミット。航空総隊の全力を投じて支援任務を完遂させ、満面の笑みをぜひ浮かべたい。

父の軍歴に想う(平成25年3月:福江広明)

 この記事は、航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」No.99(平成25年3月東風号)から転載したものです。


 手元に帝国海軍から継承された人事記録の写し(B5版)が1枚。実父の軍歴である。同記録の「入籍時」欄には、学力-中三在、職業-生徒との記載から、中学校在学中に志願したと思われる。

 
 部隊歴は次のとおり。昭和19年9月15日に第15期甲種飛行豫科練習生として鹿児島航空隊に編入。その1ヶ月半後に福岡航空隊、翌年3月には臨時第3特攻戦隊司令部、同年6月に佐世保鎮守府第14特別陸戦隊へ所轄替えとなっている。記録の最下行には昭和20年9月1日依命豫備役編入とある。ちなみに海軍飛行兵長が父の最終階級だった。


 旧軍の人事記録の存在を知ったのは、空幕補任課で栄典にかかわる業務に携わった7年前。厚生労働省の関係部署に所定の書類を提出することで、軍歴の写しを入手できることを耳にした時、父を思い出した。

 
 生前、父は軍隊時代について語ることはほとんどなかった。私が防衛大学校への入校意志を告げた際に、思い止まらせようと「考え直してはどうか」と意見したところから察するに、相当に辛い体験をしたのだろう。


 こうした思いから、無性に父の軍歴を知りたいという衝動に駆られた。戸籍、死亡届など結構な数の関係書類を揃えるまでに、時間はさほどかからなかった。記録の写しを手にした時は、わずか1年にも満たない旧軍での部隊歴がわかっただけで満足だった。その後、職務に追われる中、写しは引き出しの奥へ。

 
 戦後、父は教職に就いた。休日の宿直当番時には、小学生の私を赴任先の教員室や宿直室に連れて行ってくれた。

 
 自分の子供の世話も両立しようと考えてのことだと思う。私の通う学校と父の赴任先とは異なっていた。職員規則の関係だろう。他校の運動場やプールで一人遊びしていたのが心寂しくも懐かしい。

 私が中学に進学する頃には、父は自ら望んで養護教育の場に移った。それ以降、長崎県内の公立養護学校で教鞭を執ることになる。

 
 私の防大在学中や任官後も「ひ弱だったのが逞しくなった」と父は大変喜んでくれたが、それでも二人で自衛隊関係の事、ましてや軍歴の事などを話することはなかった。

 
 父は25年前に59歳で他界。真に学校教育を愛する人だった。葬儀の後、身辺を整理していたところ、1冊の業務手帳が出てきた。その中には「教育は草木の手入れと同じ。手をかければかけるほど、愛情を注げば注ぐほど、生き生きと応えてくれる。楽しい」というメモ書きが残されていた。父は庭いじりがとても好きな人で、私も大いに手伝われたものである。

 
 教職者として定年間際だった父の年齢に近づいてきた今、父に問うてみたいという気が一層募る。戦中のことよりも、むしろ戦後の人生について。師範学校へ通い、教職の道を目指したのは何故か。養護児童・生徒の教育に転換したきっかけは何だったのか。最後まで管理職ではなく、何故に教室の檀上に立つことを選択し続けたのか、等々。いずれにも心境の変化と決意があったはずである。

 
 また、私自身も自衛官としての現役期間が残りわずかのところまできた。近年の職務では、後進の育成を強く意識して勤務に精励。業務上の指導に当たっては、奢らず、高ぶらず、背伸びせずをモットーとしているものの、未熟の域を脱せず反省の日々が続いている。

 
 さらに今後はメンター、カウンセラー、アドバイザーという立場でも、心豊かな隊員の育成に助力していきたい。父のように愛でる楽しさという境地には達し得ないにしても、教え育てるという観点で、より良い隊務運営に貢献したい。

 
 父の未知なる人生の手がかりを得て4年が経過。私は期せずして20年ぶり2回目の九州・福岡(春日基地)勤務となった。定年退職後にと、半ばあきらめていた父の軍籍時代の足跡巡り。余暇を利用した戦跡探訪は、私の新しい趣味になるだろう。まずは福岡航空隊跡に立ち、父を想い、語りかけることから始めよう。今の職責にかかわる新たな気づきも、きっと見つけられるはず。楽しみ多き、鎮西の勤務なり。

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